早朝の牡蠣むき修業
震災の翌年以降も、奥田政行シェフはことあるごとに志津川の牡蠣やギンザケを使い、工藤忠清さんたち漁師を応援し続けていた。
そんな奥田シェフと工藤さんが、今年5月25日、志津川で再会するという。
志津川のある南三陸町に、チリ共和国のイースター島からモアイ像が贈られることになり、その記念式典で料理をするためにシェフがやって来るのだ。せっかくだから、私も立ち合いたい。番屋チームの復活ぶりも見たい。
聞けばその日、工藤さんたちは、朝から牡蠣をむいているという。
三好「牡蠣むきは、何時からですか?」
工藤「新しい加工場で、朝の4時からやってるよ」
三好「早っ!」
奥田シェフは「アル・ケッチァーノ」の営業を終えてから、夜0時過ぎに鶴岡を出発。車を飛ばして志津川へ向かっている。私は前日から漁港近くの民宿に泊まり、まだほの暗い海岸沿いの道を、長靴履いててくてく歩いていった。すると……
「うわぁ、カッコいい!」
目の前に、2年前にはなかった建物があった。看板には「南三陸漁業生産組合 かき加工処理施設」とある。工藤さんは、震災後に志津川湾の有志の漁師が集まった〈番屋チーム〉の仲間12人と生産組合を結成。2011年の年末には、早くも養殖物の出荷に不可欠な加工場を建て始めていた。
もともと漁師は個人自営業者で、“一匹狼”的に仕事をしている人がほとんど。牡蠣漁師の場合も、養殖はそれぞれで、殻むきだけは共同の牡蠣小屋で行ない、それを漁協に出荷するのが一般的だった。
ところがここでは、牡蠣、ワカメ、ホタテ、ホヤなどさまざまな海面養殖の漁師が集まって生産組合を結成。民間支援や国や県の補助事業を積極的に活用しながら、自前の加工場も建てた。タイムカードを作って労務管理を行ない、組織的な漁業するのは、宮城県でも初めてのケースだ。
加工場のまん中の部屋に灯りが点いている。そーっとドアを開けて入っていき……
「おはようございまーす」
組合のみなさんが、黙々と牡蠣の殻をむいている。奥田シェフはまだ到着していないけれど、とても忙しそうで、ボーッと作業を見てるのは申し訳ない。
三好「お手伝い、してもいいですか?」
工藤「どれ、やってみっか」
軽い気持ちで手伝おうとしたのが、間違いだった。
工藤「はい、まずまっすぐ殻の端にナイフを突き立てて、そっから斜めに倒して殻と殻の間に入れて貝柱を切る!」
三好「こうですか? あれ?」。ぶちっ! 牡蠣の身を傷つけてしまった。まず片側の殻を外し、身の下側にナイフを入れて貝柱を切る。これが案外難しい。
工藤「はい、失敗。これはもう売りものにならないから、1個500円ね。そこの海水で洗って、責任もって食べて」
三好「はーい」。ぺろり。つるん。ごっくん。「んまい!」
こんな罰ならどこまでも受けたいが、罰金がどんどんかさんでゆく。
海から引き揚げた牡蠣には、海藻、ホヤ、真っ黒なムール貝(ムラサキイガイ)がびっしりついている(写真)。それらを手で引き剥がして牡蠣を取り出しては、殻をむいていく。
「牡蠣よりも、その周りにつくヤツらが大きくなっている。ムール貝なんか、ものすごく生長が早いんだ」と工藤さん。
通常は、ムール貝が牡蠣にくっついてエサを奪うのを防ぐため、夏の間に「温湯(おんとう)処理」を行なう。これは船の上でお湯を沸かし、牡蠣を吊るしているロープごと30秒ほど漬けるというもの。牡蠣をお風呂に入れるような形になる。
「そんなことをしたら、ゆで牡蠣になってしまうのでは?」
「いいや、牡蠣は殻をピターッと閉じて死なずに頑張る。だけど、ムール貝はすき間からお湯が入って死滅するんだ」
「ほほー、牡蠣って偉いんですね」
本来なら、ムール貝がまだ豆粒よりも小さい夏の間に処理してしまうのだが、震災後、船や機材が不足して充分に温湯処理ができなかった。そのため、牡蠣に付着したまま、こんなに大きくなってしまったのだ。
「ええい。この際、ムール貝も売ってしまえ!」
と工藤さん。いつもの年は邪魔者だった三陸のムール貝。これもまた、のちに奥田シェフが使うことになった。
すぐできそうだと思った牡蠣むきは、実際やってみると意外に難しい。牡蠣用ナイフは鋭く尖っているので、一歩違うとかなり危険だ。
工藤「アブナイ! そんな持ち方したら、ケガすっぞ!」
怒号が飛んでくる。手伝うつもりが足手まといに。だけどここでやめるのは悔しい。
三好「先生、これでは」
工藤「ダメね。はい1000円」
三好「こんでは?」
工藤「おっがしいな、フツーの人はだいたい3個で習得すんだけど、はいダメ。1500円」
三好「んもー、シェフがなかなか来ないのがいけない。罰金は奥田シェフにツケといてください」
工藤「わがった(笑)」
失敗、つるん。また失敗、ごっくん。またまた失敗……結局計7個の牡蠣を食べ、罰金は3500円に。やっと工藤さんに「合格」のお墨付きをいただいたころ、夜通し運転してきた奥田シェフがたどり着いた。
三好「待ってる間に、いっぱい牡蠣をダメにしちゃいました。といっても食べたんだけど……。罰金の請求書は、シェフに回してもらいますからね」
奥田「なんでぇ……」
疲れた様子のシェフは、苦笑い。すると工藤さんが、加工施設を案内してくれた。
1969年山形県鶴岡市生まれ。2000年「アル・ケッチァーノ」を開業。地元で栽培される食材の持ち味を引き出す独自のスタイルで人気を博す。「食の都庄内」親善大使、スローフード協会国際本部主催「テッラ・マードレ2006」で、世界の料理人1000人に選出される。07年「イル・ケッチァーノ」、09年銀座に「ヤマガタ サンダンデロ」をオープン。東日本大震災の直後から被災地へ赴き、何度も炊き出しを実施。今も継続して支援に取り組む。12年東京スカイツリーにレストラン「ラ・ソラシド」をオープン。スイスダボス会議において「Japan Night 2012」料理監修を務める。「東北から日本を元気に」すべく、奔走中。
http://www.alchecciano.com
1965年宮城県生まれ。食材の世界を中心に、全国を旅するかーちゃんライター。16年前、農家レストランで修業中の奥田氏にばったり邂逅。以来、ことあるごとに食材と人、気候風土の関係性について教示を受ける。震災後は、東北の食材と生産者を訪ね歩いて執筆活動中。「農耕と園藝」(誠文堂新光社)で、被災地農家の奮闘ぶりをルポ。東北の農家や漁師の「いま」を、「ゆたんぽだぬきのブログ」で配信中。
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