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TOP > 特集・連載一覧 > 東北のすごい生産者に会いに行く。 > 第2回 土への贖(あがな)い 前編

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シェフ奥田政行とライター三好かやの 東北のすごい生産者に会いに行く。 第2回 土への贖(あがな)い 前編/福島県大玉村 鈴木博之さんの田んぼにて この連載について
今回、奥田政行シェフはお休み。三好かやのさんが一人でお届けします。
福島県大玉村のコメ専業農家・鈴木博之さんのお話、前編です。

東京電力を訴えたコメ農家

 福島県中通り。郡山市の北側、安達太良(あだたら)山の裾野に位置する大玉村に、東京電力を訴えたコメ農家がいる。鈴木博之さん(63歳)だ。
「汚した土を、元に戻せ!」
 それが東電へ突きつけた、第一の要求だった。

新橋の居酒屋で…

 私が初めて鈴木さんに会ったのは、もう10年近く前のこと。新橋のガード下にあった「ふく」という居酒屋だった。そこは、農閑期になるとさまざまな会議に参加するために全国からやってくる、名だたる生産者のたまり場。「全国稲作経営者会議」山形県会長の佐藤豊さんに呼ばれてお邪魔すると、佐藤さんの隣にいたのが、福島県会長の鈴木さんだった。
 全国稲作経営者会議とは、「稲作を経営の基礎として農業一筋に生き抜いていこう!」という農業経営者による自主的な組織。1957年に設立され、「コメ一筋」に栽培に取り組む、全国各地の稲作農家のリーダーたちが集っている。
 鈴木さんはこの時すでに50歳を過ぎていたが、トラクターで全国一周したり、農協を相手取って裁判を起こして勝訴するなど、武勇伝には事欠かない。負けん気が強く、やんちゃではにかみや。それでいてどこか「憎めないオヤジ」な一面も持っている、そんな第一印象だった。
 日本のコメ農家は大部分が兼業で、他に仕事を持ちながら栽培する人が多いなか、鈴木さんは一貫してコメ一筋。18年前に米穀の小売免許を取得して、作ったコメは農協を介さず、自力で販売先を開拓。地元はもちろん、東京など各地の飲食店や個人客に直接販売してきた。コメの炊き方を巡って、定食屋の主人と論争を巻き起こしたこともある。それだけ自分が作るコメに自信と誇りを持っている。そしてひとたびトラブルが起きれば、「落とし前」をつけなければならない。そんな妥協を許さぬ熱い作り手なのだ。

 2011年3月。東京電力福島第一原発で事故が起きた時、なぜか飲み屋で一度会ったきりの鈴木さんのことが気になった。大玉村は原発から西へ約60キロ。津波の被害はなく、原発事故の避難地域に指定されているわけではないけれど、今年の田植えはどうするのだろう? 10年前は専業コメ農家のリーダーも務めていた。これから「福島のコメ」は、どうなるのだろう?

きっととんでもないことになる

 私が鈴木さんに最初に連絡したのは、震災後の4月だった。さいわい大玉村の被害は少なく、「瓦が4~5枚落ちた程度」。けれど、この時すでに鈴木さんは「とんでもないことになる」と予感していた。目に見えない放射性物質が、県内全域の田んぼに降り注いでしまったから。
「きっとコメが売れなくなる」と鈴木さんは言った。
「今年の田植えはどうするんですか?」とたずねる私に、
「いつも通りやる。何があってもコメは作る」
「せっかく作っても、売れなかったり、安かったりしたら?」
「そん時は、事故を起こした東電か、その管理を怠った国に買い取ってもらうまでだ」
「鈴木さんほどの作り手なら他の場所でもやっていけるのに、移転は考えないのですか?」
「先祖の墓を残して、こっから動くわけにはいかない」

 その年の春、鈴木さんは約10haの水田に、例年通り苗を植えた。
 周囲では「ゼオライトを入れろ!」「真っ青なプルシアンブルーという資材がいいらしい」など、除染効果を謳ったさまざまな農業資材の情報が飛び交っていたが、「人の口に入れられないものは使いたくない」と、一部の水田に試験的に塩を撒いただけ。この年稲は順調に育ち、2011年産米の食味は、すこぶるよかったという。
 ところが、この年の10月、福島県産米は、県知事がコメの「安全宣言」をしたそのあとに、当時の暫定基準値500Bq/㎏を上回るコメが見つかるという事態に。鈴木さんが住む大玉村でも、高濃度に汚染されたコメが見つかり、食べる人たちの信頼は、大きく揺らいだ。

 私がようやく鈴木さんを訪ねたのは、収穫を終えた2012年2月。生産者ではない私だけでは心もとなかったので、出会いのきっかけを作ってくれた、山形の佐藤さんとその仲間のコメ農家3人も一緒に出向いた。
 鈴木さんの倉庫には、売れずに残ったコメの袋が、ぎっしり並んでいた。“予感”は当たってしまった。
 そして倉庫の2階の事務所に「ここが放射能対策本部だ」と案内された。

 震災からすでに1年近くが経過していた。
「今ごろのこのこやってくるアホ」でしかなかった私に、鈴木さんはこんなふうに話してくれた。
「オレらはさ、お客さまに年間通してコメを買ってもらえることを夢見てた。長年おつきあいできる固定客がほしかった。だけど原発事故が起きてから、そんな考えは吹っ飛んじゃった。
一番キツいのはお客様の素朴な疑問。
“安全なんですか?” これに答えられないんだよな。
“タバコより害は少ない”“ストレスのほうが体には悪いとも……”。そんな話はできるけど、結局目クソ鼻クソ。
最終的に“大丈夫なんですか?”っていうギモンに“大丈夫”って言いきれない。
当たり前よ。オレだって知らねえもん。知らないものを売っていいのか? キツいぜ、これは!」


 原発事故後からその時までに、鈴木さんは2度東電を刑事告訴していた。たった1人で告訴状を書き上げ、東京地方検察庁へ提出したのだ。これは原発事故による損害賠償請求とはまた別である。
「賠償は民法だけど、告訴は刑法。事故のせいでコメが売れなくなったから、東電による威力業務妨害罪。土を壊されたから、東電による器物損壊罪。これは犯罪だから、東電を罰してほしい。
 そもそも告訴というのは、被害者しかできない。しかも告訴には受理・不受理しかないはずなのに、検察庁は書類を『お返しします』と。受理なのか、不受理なのかすら判断がつかない。これ前代未聞のウルトラCだよ。なかったことにされちゃったんだから!」。
 農協を相手取り一度裁判を経験していることもあって、鈴木さんは法律にめっぽう強い。茶飲み話のつもりでも、法律用語がポンポン飛び出してくるから、ついていくのが大変だ。たくさんの農家を取材してきたけど、こんなオヤジ、見たことがない。
 そんな鈴木さんに、私は素朴なギモンを投げてみた。
「農地を汚染されたのは、みんな一緒のはず。鈴木さん以外にも、福島のコメ農家が団結して東電を訴えないのはなぜですか?」

「このあたりは兼業農家が主で、しかも農業依存度は2割ほど。ほかに収入あるから、急には困らない。東電を訴えないのは、みんな今日を生きるのに精一杯だから。今日を生き残らなければ、明日はないから。30年後の子どもの健康ももちろん心配だけど、今月の給食費と学費を払うほうが先。逆にうちみたいに農業依存度100%のところほど、今回はダメージがデカい」

 東北は米どころと言われるけれど、農家の現状は、もう30年以上前から「コメだけでは喰っていけない」状態。だから稲作農家の兼業率が高く、しかも大半が農協に販売を委託しているので、今回のような事故が起きても経営的なダメージは比較的少ない。逆に、鈴木さんのように良質なコメ作りを目指して、顔が見えるお客に対して味で勝負してきた専業コメ農家のほうが、経営的にも精神的にも痛手が大きく、農家の間にも危機感に温度差が生じている。それは野菜や果樹も一緒。これまで福島の農産物の品質向上やブランド力アップに尽力してきた人のほうが、より苦しんでいる……原発事故は、そんな理不尽な結果をもたらした。

 検察から鈴木さんのもとに返送された告訴状には、こんな一文が添えられていた。
「具体的な犯罪事実が特定されていない」
 東電が土とコメと農家に何をしたか、目に見える形で実証するのは難しい。だけど鈴木さんのコメは確実に売れなくなっている。その因果関係を「自力で立証せよ」と言っている。
「オレたちには、放射能に関する知識がない。先祖代々コメの作り方は身につけてきたけれど、先祖代々放射能については教わって来なかったから、折り込んでいない。それなのに、検察はどんだけ土が汚れたか、土壌が壊れたかを、立証しろって言う」
 もし私が同じ立場にいたら「イチ農家に、そんなのムリ」と、誰もがお手上げだと思う。しかし、稲刈りを終えた鈴木さんは、東電が何をしたかを立証するために、着々と動き出した。

 
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プロフィール

奥田政行(おくだ・まさゆき)
1969年山形県鶴岡市生まれ。2000年「アル・ケッチァーノ」を開業。地元で栽培される食材の持ち味を引き出す独自のスタイルで人気を博す。「食の都庄内」親善大使、スローフード協会国際本部主催「テッラ・マードレ2006」で、世界の料理人1000人に選出される。07年「イル・ケッチァーノ」、09年銀座に「ヤマガタ サンダンデロ」をオープン。東日本大震災の直後から被災地へ赴き、何度も炊き出しを実施。今も継続して支援に取り組む。12年東京スカイツリーにレストラン「ラ・ソラシド」をオープン。スイスダボス会議において「Japan Night 2012」料理監修を務める。「東北から日本を元気に」すべく、奔走中。
http://www.alchecciano.com
三好かやの(みよし・かやの)
1965年宮城県生まれ。食材の世界を中心に、全国を旅するかーちゃんライター。16年前、農家レストランで修業中の奥田氏にばったり邂逅。以来、ことあるごとに食材と人、気候風土の関係性について教示を受ける。震災後は、東北の食材と生産者を訪ね歩いて執筆活動中。「農耕と園藝」(誠文堂新光社)で、被災地農家の奮闘ぶりをルポ。東北の農家や漁師の「いま」を、「ゆたんぽだぬきのブログ」で配信中。
http://mkayanooo.cocolog-nifty.com/blog