一番頑張ったのは「土」
2012年、鈴木さんも武田さんも渡邊さんも、ADRとほぼ同時進行で、田植え前の「除染作業」と収穫後の「全袋検査」を経験している。
除染作業の内容は、田植え前の田んぼに、セシウムを吸着する性質のあるゼオライトや珪酸カリを撒布するというもの。ゼオライトは、天然の鉱物由来の土壌改良材で、カリは元々栽培に必要な肥料分。「水田土壌に25㎎/100g以上となるように土壌改良を行なうと、放射性セシウムを低減できる」という試験栽培の結果に基づいた県の指導によるものだ。
写真撮影:富山大学 林 衛
そして秋には、日本の稲作史上初、壮大な「全袋検査」が行なわれた。収穫した玄米30㎏入りの袋をひとつひとつ検査機にかけ、100Bq/㎏以上のものは出荷しないというシステムで、膨大な予算と人、そして時間を要したため、新米の出荷が遅れた。これもまた、農協出荷ではなく直売主体の3人には、大きなダメージになった。というのも、直売中心のコメ農家にとっては、新米の時期にできるだけ早く売りたいもの。なのに10月末になっても1袋も売ることができなかったのだ。
福島県の総力をあげての全袋検査の結果、約1032万袋検査して、うち99.78%が、検出限界の25Bq/㎏未満。100Bq/㎏を超えたのは71袋。99.99%は基準値以下だった。基準値を超えるコメが思いのほか出なかったのは、なぜだろう?
高濃度汚染地域の作付けを制限したことと、田植え前の除染作業が功を奏したため?
「我々の土地は、セシウムを吸着する重粘土地帯。それが不幸中のさいわいだった」
と鈴木さんは話す。前編でも触れたように、土ががっちり抱えて離さないから、放射性物質がコメに移行しづらい。
これで福島県産米の信頼と安全性は取り戻せたのだろか?
「いや。23年度産米より、24年度産の米のほうが、売れなくなっている」
3人とも同じ答え。直売主体のコメ農家では、全袋検査をしても、信頼を取り戻せたとはいえない状況なのだ。
鈴木さんは、2011年に引き続き、12年もコメ以外に土などを独自に検査に出した。
土壌のセシウムは前年の2割減。白米の数値は確実に下がっていて、一番値の高いものでも1.7Bq/㎏というものだった。それでも売れなくなっている。これだけ除染して、徹底的に検査してもまだ、食べる人たちの信頼は取り戻せない。農協を通した流通の場では、福島米は価格を下げ、ブレンド米として売れているというが、直売は厳しい。
「基準値以下でも安全かどうか判断するのは、お客様だから。福島県ではもう、付加価値米は成り立たないのかもしれない」
この状況を打開する方法は、あるのだろうか?
「一番理想的なのは、田んぼ1枚1枚土壌を検査すること。それぞれの汚染度がわかったら、それに合わせて、たとえばこっちは土を全部取り替える、ここはカリを振ればなんとかなる、こっちはプラウ(鋤)で天地返しする……ひと口に除染といっても、やり方はいろいろある」
そんなことは実現可能?
「できる」
と、断言した鈴木さんは、一枚の地図を取り出した。
昭和の終わり頃に作られた大玉村の「土壌化学性改善図」。田んぼ1枚1枚の土壌成分が計測されていて、足りない成分を補って、土壌改善をする指針となっている。実際に当時の村ではこれを元に土壌の改善が行なわれた。
これだけ綿密な調査を行なった実績があるのだから、除染に関しても同じことができるはず。どの田んぼからも、セシウムを出さずにコメを栽培する方法を見い出すことはできる、と鈴木さんたちは考えている。調査には、膨大な資金と人手、そして根性が必要だが、そこまでしなければ「除染」とはいえない。それで消費者の信頼が取り戻せるかどうかは、また別問題だけれど。やるべきことは、まだある。
3人が今、懸念しているのは、同じ福島県のコメ農家の間にも「なかったこと」にしようとする空気が漂い始めていること。
東電が、福島の土を汚したのは、まぎれもない事実。これを「なかったこと」にするわけにはいかない。土を汚した罪をいかにして東電に認めさせ、贖ってもらうか。これからは、東電との直接交渉、ADR、そして裁判の3本立てて争うつもりだという。
この2年間の闘いを通じて、鈴木さんは言っていた。
「農家には、放射能のことがわからない。だから学ぶしかない。
東電は、農家の事情がわかっていない。なのに、ちっとも自分から学ぼうとしない。
共に闘う弁護士は、農業のことも、放射能のこともわかっていない。だから勉強してもらう」
日本で稲作が始まって以来、誰もやったことのない闘いに挑もうとしている3人。前例がないから、闘い方そのものを、告訴した農家側から構築していかなければならない。当初自分と東電の関係について「小学生と大学教授の闘いみたいだ」と話していた鈴木さん。事務所には、「除染」「裁判」などと書かれた膨大な書類とそのファイルが並んでいる。農作業をしながらここまで資料を集めて、勉強してきたのだ。私は頭が下がる思いだ。やはり、このまま「なかったこと」にしてはいけない。
「研究者でも学生でもいい。誰か書類の整理を手伝ってくれると助かる。ここに来れば、きっといい論文が書けるぜ」と鈴木さんは笑って話す。
最初は「たまたま飲み屋で知り合ったオヤジ」だと思っていた。だけど、それだけじゃない。この人は、原発が農家と農地に何をしたか、“自分のコトバ”で語れる数少ない生産者だ。もしかすると、今の福島、いや日本で、最も重要な立ち位置にいるんじゃないのか?
放射生物質との闘いで、一番頑張っているのは、行政よりも、農家よりも、セシウムを抱えて離さず、作物に移行させなかった福島の「土」。東電はやはり自分の罪を認めて、土と農家に、ちゃんと謝るべき──鈴木さんは、もの言わぬ土の、最もリアルな代弁者だ。
「30年かかるかもしれない」
そんな現実を前に、今、私たちに何ができるのか。その答えは簡単に見つからないのかもしれない。それでもコメを作り続けながら、放射性物質を計りに計って、東電相手に戦い続ける作り手がいる。今後の動向と戦い様を、見守り続けていきたい。
梅雨が明けた先日、そんな鈴木さんから「H24年産コシヒカリ」が届いた。
「このコメ、なんでこんなに固いんだ?」
袋から取り出してビックリ! 2.5㎏ずつ真空パックになっている。
そして、袋に爪楊枝で小さな穴を空けるとプシューっと空気が入り、中のコメがサラサラと音を立てて崩れていく。これを真空パックの入っていた紙袋に移せば、保存袋として使えるというパッケージなのだ。
とれたての新米は、たしかに旨い。だけどどんな名人でも、梅雨時から夏場まで「旨いまま(=コメ)を、旨いまんま」届けるのは難しい。精米後に高温で湿気の多い空気に触れると、酸化して食味が落ちやすいからだ。
「都会のズボラな奥さんでも、こうして小分けにパックして送れば、最後までおいしく食べきれるだろ」
電話をすると、鈴木さんはそう答えた。まさに「都会のズボラな奥さん」な私には、ありがたい気配りだ。
原発事故が起きて、除染やADRに奔走しながらも、きっちり作って、きっちり届ける。そんな心意気は以前と変わらず。
福島の土と、鈴木さんの闘いの証を、心していただこう!
◎今回訪ねた先は…
1950年生まれ。6代続くコメ農家で23歳で就農。76年に農作業を請け負う任意団体を設立。84年に(有)農作業互助会を法人化。農作業受託をめぐる問題から88年に債務負債による経営危機に陥るが、地元の農協を訴え、裁判所の和解勧告を受けて危機を脱出。コメの生産、精米、小売事業で再建。低たんぱく米の特性を生かした団子屋「ままや」を開業。2011年福島第一原子力発電所の事故後、単独で東京電力を告訴。その後、2人の生産者とともにADRで和解交渉を続けるが、要求の大部分が受け入れられず、継続して打開策を模索している。
福島県安達郡大玉村大山字大江田中128-17
電話/0243-48-1182
営業時間/10時~18時
定休日/月曜・第一日曜
(注文・問い合わせ)
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1969年山形県鶴岡市生まれ。2000年「アル・ケッチァーノ」を開業。地元で栽培される食材の持ち味を引き出す独自のスタイルで人気を博す。「食の都庄内」親善大使、スローフード協会国際本部主催「テッラ・マードレ2006」で、世界の料理人1000人に選出される。07年「イル・ケッチァーノ」、09年銀座に「ヤマガタ サンダンデロ」をオープン。東日本大震災の直後から被災地へ赴き、何度も炊き出しを実施。今も継続して支援に取り組む。12年東京スカイツリーにレストラン「ラ・ソラシド」をオープン。スイスダボス会議において「Japan Night 2012」料理監修を務める。「東北から日本を元気に」すべく、奔走中。
http://www.alchecciano.com
1965年宮城県生まれ。食材の世界を中心に、全国を旅するかーちゃんライター。16年前、農家レストランで修業中の奥田氏にばったり邂逅。以来、ことあるごとに食材と人、気候風土の関係性について教示を受ける。震災後は、東北の食材と生産者を訪ね歩いて執筆活動中。「農耕と園藝」(誠文堂新光社)で、被災地農家の奮闘ぶりをルポ。東北の農家や漁師の「いま」を、「ゆたんぽだぬきのブログ」で配信中。
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