東日本大震災の後、宮城県南三陸町志津川の牡蠣漁師・工藤忠清さん(49歳)の元へ、先にたどりついたのは、奥田政行シェフだった。
震災から2カ月。「3年で復活させます!」
南三陸町は、2005年に志津川町と歌津町が合併して生まれた。志津川はその南側に位置し、志津川湾ではワカメ、牡蠣、ホヤ、ホタテなどの養殖がさかん。またタコの水揚げが多いことでも知られている。
リアス式海岸特有の地形のため、津波の被害を受けやすく、これまでも明治の三陸大津波(1896年)、昭和三陸大津波(1933年)、チリ地震(1960年)と大きな被害を受けてきた。
そして2011年3月11日の東日本大震災。震災直後、志津川港周辺は壊滅的な状態に陥っていた。
工藤さんは、震災が起こる20年前に有限会社大清を立ち上げ、牡蠣養殖と卸売業をスタート。自ら加工場を作り、市場や牡蠣の専門業者、レストランをはじめ、インターネットを通じて個人にも直接販売していた。
ところが、今回の津波により、漁港に浮かぶ牡蠣の養殖いかだ、漁船4艘、加工場、そして自宅──財産すべてを失った。からくも家族は全員無事。失意の中にありながらも、「志津川の生活と産業を、同時に立て直していかなければダメだ。それに必要なのは何だろう?」と考えを巡らせていた。
陸の上も海の中も、ガレキだらけ。そんな状況の工藤さんと漁師仲間のもとに、突然奥田シェフがやってきたのは2011年5月18日のこと。シェフは同じ月の31日、料理人たちが東京で開催する「ソウルオブ東北」というイベント用に、東北の食材を探していたのだ。
奥田シェフは、現場に着くなり言った。
「海へ出たい。海の中の食材たちが、どうなっているか知りたい」
工藤さんたちは流されなかった船にシェフを乗せて、海に出た。震災後初めてだった。
当時を振り返り、工藤さんが話してくれた。
「海に沈んだガレキの下に、仲間の潜水士が潜っていって『あったあった!』と。ワカメも牡蠣もホタテもみんな団子のように固まっている。引き上げてみると『生きてる!生きてる!』」
引き上げた牡蠣の殻をさっそく船上でむき、海水でジャジャジャッと洗った。それを真っ先食べたのは、奥田シェフだった。
奥田「んまい! これ、分けてもらえませんか? 800個」
工藤「えっ? ええーっ! うそっ」
生牡蠣は、たとえどんなに新鮮でも、海から上げてすぐには出荷できない。むき身の場合は滅菌海水で10時間以上、生食用の殻つき牡蠣は22時間以上浄化する決まりになっている。あの津波を乗り超えて、牡蠣はたしかに生きていた。けれど、海辺にあった浄化施設はことごとく被災している。食用として出荷するには、加工場がなければ無理なのだ。
だから工藤さんたちは、出荷して、誰かに食べてもらおうなんて、思ってもいなかった。はたして食用として出荷できるのだろうか。
「わかりました。食品検査をして、問題なければ出します」
地元では、あまりの被害の大きさに「もう、海を見るのもイヤだ」という人も多く、漁師でも「油まみれになってるのでは」「食べられるわけがない」と、ガレキの下に残っていた牡蠣に見向きもしない人が多かった。それでも検査に出してみると……
「滅菌海水で浄化したのと同じくらい、衛生的でした。あれにはびっくりした」と工藤さん。
「今考えると、震災で町のライフラインもズタズタになり、当時の志津川湾には、生活排水が入り込んでいなかった。だから、海が清浄になっていたんだと思う」
大丈夫。牡蠣は生きている。食べられる。
これで弾みがついた工藤さんたちは、種牡蠣を集め、どんどん海に投じ始めた。
「石巻の万石浦(まんごくうら)に、預けておいた種がある。さらに知り合いが2000連の種牡蠣を譲ってくれると言う。周りには『まだ早い』って声もあったけど、種があんのになんで作らねの? 今仕込まなかったら、牡蠣屋じゃねえだろ!」
「牡蠣は出荷できます。送ります」とすぐさまシェフに伝えた。
こうしてあの津波に巻き込まれながらも生き残った「不屈の牡蠣」は、2週間後の5月31日「ソウルオブ東北」のチャリティーシンポジウム「東北を守ろう!」の席で、奥田シェフの手により料理され、テーブルを飾ることになった。
当日は、奥田シェフのほかに岩手・奥州「ロレオール」の伊藤勝康さん、京都「菊乃井」村田吉弘さん、東京「KIHACHI」の熊谷喜八さん、「京都吉兆」の徳岡邦男さんをはじめ、全国から40名もの料理人が集結。「東北ビュッフェ」で腕をふるった。
参加者はテーブル席5万円、立食席2万円でチケットを購入する仕組み。目標は、被災地の食材で料理を作り、提供しながら地元の人たちを元気づける、そのためのキッチンカーを走らせること。この日だけで1台分の金額(3000万円)を、見事に達成することができた。
「正直いったい何のイベントか、我々にはよくわからなかった。でも、そんなに有名なシェフが大勢来るのなら、お邪魔して、ご馳走になってみたい」
そんな工藤さんの申し出に、奥田シェフは「ぜひ、いらっしゃい!」。
そうして工藤さんと長男の広樹さん、志津川の若手漁師が合せて5人、新調したスーツに身を包み、会場のホテルへやってきた。なんとか調達した800個の牡蠣は、宅配便で送るのではなく、自らむき身にして携えてきた。そして、それを奥田シェフが料理した「不屈の牡蠣」の一皿を食べた。
初めて食べた牡蛎の料理。工藤さんは、
「牡蠣は生でそのまま食べるのが、一番旨いと思ってた。オリーブオイルを合わせようなんて、考えたこともなかった。でも、シェフがほんのちょっと手を加えただけで、がぜん旨くなる。もともと素材に自信はあるけど、それをもっと旨くするのが、料理の魔法なんだな」。
その席で、司会の女性が突然工藤さんを紹介した。
「被災地の南三陸町から、この牡蠣を生産した方がみえています!」
壇上でマイクを渡された工藤さんは、気づいたらこう宣言していた。
「年内に1割、来年は50%、再来年は100%、牡蠣を復活させます!」
満場の拍手が巻き起こる。震災からまだ3カ月もたっていないのに、3年で元通りにするという。そんなことが、本当にできるのだろうか?
1969年山形県鶴岡市生まれ。2000年「アル・ケッチァーノ」を開業。地元で栽培される食材の持ち味を引き出す独自のスタイルで人気を博す。「食の都庄内」親善大使、スローフード協会国際本部主催「テッラ・マードレ2006」で、世界の料理人1000人に選出される。07年「イル・ケッチァーノ」、09年銀座に「ヤマガタ サンダンデロ」をオープン。東日本大震災の直後から被災地へ赴き、何度も炊き出しを実施。今も継続して支援に取り組む。12年東京スカイツリーにレストラン「ラ・ソラシド」をオープン。スイスダボス会議において「Japan Night 2012」料理監修を務める。「東北から日本を元気に」すべく、奔走中。
http://www.alchecciano.com
1965年宮城県生まれ。食材の世界を中心に、全国を旅するかーちゃんライター。16年前、農家レストランで修業中の奥田氏にばったり邂逅。以来、ことあるごとに食材と人、気候風土の関係性について教示を受ける。震災後は、東北の食材と生産者を訪ね歩いて執筆活動中。「農耕と園藝」(誠文堂新光社)で、被災地農家の奮闘ぶりをルポ。東北の農家や漁師の「いま」を、「ゆたんぽだぬきのブログ」で配信中。
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