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 第7回 福島の農業の未来を創るレストラン/福島県郡山市 鈴木光一さんの◯◯◯にて

新しい町だから、新しい野菜で勝負!

 郡山に限らず、最近日本全国で「ご当地野菜」のブームが広まっている。そのひとつの流れが「伝統野菜」や「在来作物」。生産性が低いために埋もれてしまったけれど、農家自身が家族や知り合いと分かち合いたいと、種を継ぎ、畑の片隅でひっそりと残っていた──そんな品種が脚光を浴び、ブランド化しようというムーブメントが起きているのだ。
 山形県庄内地方で、山形大学農学部の江頭宏昌准教授とともに、数々の在来作物を発掘し、その価値を見いだし、独自のスタイルのイタリア料理に使うことで世に送り出してきた奥田シェフは、その火付け役でもある。
 福島県にもかつて炭鉱の町として栄えたいわき市には「昔野菜」、城下町の会津には「伝統野菜」が残されていて、それぞれに伝承やブランド化の動きがある。しかし、中通りの郡山には、それが見当たらないという。
「郡山は新しい町なので、新しいものを取り入れてチャレンジしようという気風があります。ご当地野菜がないのなら、みんなの好みに合ったものを、種苗メーカーの最新品種の中から作ってしまえ! 1年に1品目を目標に、ブランド化に取り組んできました」
 新品種の中から、食味に優れ、郡山の気候風土に適し、地元の人たちに愛される品種を選び出し、オリジナルの名前をつけて商品化。そんな試みを始めて8年目に震災、そして原発事故が起きた。順調に進んできたブランド化も、一時休止せざるをえなかった。

計っても、計っても不検出、それでも拭えぬ不安

 震災直後、鈴木さんが一番ダメージを受けたのは、春蒔きの種と苗の販売だった。郡山では専業農家でなくとも、自家菜園で野菜を栽培している人が多い。
「おじいちゃん、おばあちゃんたちが、都会に住む子どもや孫に送るのを楽しみにしていた野菜が作れなくなってしまった。せっかく作っても『いらない』と言われてしまうから……」
 私自身もそうだが、都会では故郷の両親や祖父母が送ってくれる野菜に支えられている人たちが多い。お年寄りが手塩にかけて育てた野菜を仲立ちに、つながる家族の絆が途絶えてしまう。原発事故の影響は、そんなところにも現われていた。
 私が訪ねた時点で、原発事故からすでに半年以上が過ぎていた。鈴木さんは、セシウム対策として、土壌改良資材のゼオライトを「ちょっと多めに」投入し、野菜の栽培を続けていた。郡山市の農業総合センターにはゲルマニウム検査機が導入され、本格的なモニタリング検査も始まっており、鈴木さん自身も検査用に、何度も野菜を提供したが、いつも結果は検出限界以下。
「数値的に見れば、安全性に問題はないはず。けれどもその結果が、食べる人の安心感につながっていない。それが福島県の抱える一番の問題です。我々は作り続けるしかない。はたしてうちの息子たちの世代の後継者たちが、農業を続けていけるのか。それが一番の課題です」
 翌年から、米の全量全袋検査もスタート。震災から3年が経過した今、山のキノコや山菜、原発に近い場所で栽培された大豆などから、まれに検出されることはあるものの、2012年4月に基準値がそれまでの500Bq/㎏から100Bq/㎏に改められて以降、福島県のモニタリング検査で基準値を超えた野菜は3検体のみ。13年の1月10日にコマツナから検出されたのが最後で、その後は「計っても、計っても、基準値以下」の状況が続いている[農林水産物モニタリング情報「ふくしま新発売。」より]。
 あれだけの事故が起き、放射性物質は福島県のみならず、東北・北関東一円に降り注ぎ、放射性物質は今も土中に存在している。セシウム134の半減期の2年は過ぎたが、137が半減するには30年かかるという。それでも福島の米や野菜が、思いのほかセシウムを吸わないのはなぜだろう?
 もともと福島県の安達太良、阿武隈山系の間に属する中通りには、セシウムを吸着して放さない粘土質の土壌が多い。セシウムは土の三要素であるカリウムと性質がよく似ているので、土壌のカリ分が足りなくなると、これに似たセシウムを吸うことがあるが、ちゃんとバランスのよい土づくりが行なわれていれば、セシウムは吸わない。膨大なモニタリングの結果、「野菜は計っても、計ってもND」という結果がもたらされたのは、それだけ地元の生産者がしっかりバランスのよい土づくりをしてきた証でもある。
 震災直後から、福島県二本松市東和地区で有機農家の支援を続けている茨城大学名誉教授の中島紀一氏は、これを「福島の奇跡」と呼んでいる。また、土壌学の権威で「全国土の会」の代表である東京農業大学の後藤逸男教授は、塩害と原発事故、二重の被害の見舞われた相馬市で、水田で土づくりを指導し、50ヘクタールの水田を復活させているが、ここで栽培された米もセシウムは検出限界以下である。作物に放射性物質を移行させなかった土の「土力」と、生産者の「努力」に、全国から賞讃の拍手が送られてもおかしくはないはずなのだが、震災から3年たった今も、なかなかそうした空気は起こらず、食べる人たちの不信感も拭いきれていない。

料理人が産地と生産者を守る

 そんな鈴木さんの野菜と奥田シェフが遭遇したのは、2013年1月19日のこと。会場は冒頭で紹介した「日調」だった。
 同校は、福島県唯一の調理師専門学校。校内には高級レストランさながらのキッチンと客席があり、週に3回ほど市民を招いて、日ごろの修練の成果をお披露目している。この日は特別講師に奥田シェフを招いて、郡山の人たちに福島県産食材を使った料理を提供する「エッセンシャル・キッチン」という食事会が、開かれていた。
 山形県鶴岡市を拠点に、地産地消を展開。東北各地の生産者を訪ね歩き、そこから多くを学んできた奥田シェフもまた、福島の現状を知るにつけ「なんとかしたい。力になりたい」と考えていた。しかし、料理人にはお客様に安心して召し上がっていただける食材と料理を提供する責任がある。自分が「使いたい」と望んでも、お客様が「NO」といえば、それはできない。震災以降、多くの料理人が、その板挟みに苛まれている。
 奥田シェフ自身、沿岸部の被災地で炊き出しやチャリティーを続けながら、放射性物質との付き合い方を学ぼうとしていた。そんな時、被災地支援活動の中で、光産業創成大学院大学の瀧口義浩教授と知り合う。放射線を長年研究してきた専門家でもある。瀧口教授は、携帯するだけで空間線量がわかる「Radiation Tracker」という測定器を開発。小さな弁当箱ほどの大きさで、立ちどころにその場の放射線量がわかる。

Radiation Tracker

 奥田シェフは、瀧口教授を介して、放射線測定器をアル・ケッチァーノに導入し、「食材を徹底的に検査して、安全が確認できれば、使う」という考えを貫いていた。
「料理人には、消費者と産地を守る責任がある」
 これもまた奥田シェフのポリシー。料理を支える生産者の元気を取り戻すことが、東北全体の復興につながる。そして今、そうしなければ、東北だけでなく、日本全体の農業が失速してしまう──そんな危機感も感じていた。

鹿野先生と

「福島は、東北で一番生活の豊かな場所だった。だから助けたい」
 そんな奥田シェフの意志を実現させようと、エッセンシャル・キッチン当日、学校の先生方、職員、学生、合わせて27人が、68人のお客様のために、シェフの料理を全力でサポート。宴は終始穏やかに、そして和やかに進んでいった。この日は瀧口教授も招かれ、郡山市民に放射性物質の計測や付き合い方について学ぶ講座を開いていた。

 この日、提供された9品の中にも、鈴木さんが作った郡山のブランド野菜を使用されていた。冬の寒さの中、ギュッと甘みを抱きしめるように結球した「鈴木農場の冬寒菜(ふゆかんな)とトラフグのリゾット」と、甘みをたたえる白ネギを一本丸ごと姿煮にしてヴィネガーとノワゼットオイルでマリネした「鈴木農場のねぎのマリネ シェリーヴィネガーとクミンで」がそれだ。
 郡山の気候や土壌、地元の人たちの好みを知り尽くした鈴木さんが育てる新しい野菜には、庄内の人たちが受け継いで来た、在来野菜とはまた別の力と存在感がある。震災で大きく傷ついた福島県の農業が復活していく中で、ひとつの「切り札」になるに違いない。
 そして生産者を活かすには、その農産物の魅力を最大限に引き出して料理する料理人が必要だ。そう考える奥田シェフは、震災以降、直営店や自らプロデュースする店で、日調の卒業生をどんどん雇い入れている。このエッセンシャル・キッチンの時点で、鶴岡や東京の店で17人が修業中。彼らの目ざすところは、奥田シェフからがっちり地産地消の哲学を学び、故郷に福島の食を元気にするレストランを創ること。福島の農産物を確実に理解して、ちゃんと料理することで、食べる人たちをシアワセにする──。そんな「奥田イズム」を徹底的に学び、福島の食を応援しようと日々奮闘している。
「みんなの頑張り次第で3年、いや2年後には実現するかもしれません」
 若者たちと奥田シェフの怒濤の頑張りで、「その日」は意外に早くやってきた。

 
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プロフィール

奥田政行(おくだ・まさゆき)
1969年山形県鶴岡市生まれ。2000年「アル・ケッチァーノ」を開業。地元で栽培される食材の持ち味を引き出す独自のスタイルで人気を博す。「食の都庄内」親善大使、スローフード協会国際本部主催「テッラ・マードレ2006」で、世界の料理人1000人に選出される。07年「イル・ケッチァーノ」、09年銀座に「ヤマガタ サンダンデロ」をオープン。東日本大震災の直後から被災地へ赴き、何度も炊き出しを実施。今も継続して支援に取り組む。12年東京スカイツリーにレストラン「ラ・ソラシド」をオープン。スイスダボス会議において「Japan Night 2012」料理監修を務める。「東北から日本を元気に」すべく、奔走中。
http://www.alchecciano.com
三好かやの(みよし・かやの)
1965年宮城県生まれ。食材の世界を中心に、全国を旅するかーちゃんライター。16年前、農家レストランで修業中の奥田氏にばったり邂逅。以来、ことあるごとに食材と人、気候風土の関係性について教示を受ける。震災後は、東北の食材と生産者を訪ね歩いて執筆活動中。「農耕と園藝」(誠文堂新光社)で、被災地農家の奮闘ぶりをルポ。東北の農家や漁師の「いま」を、「ゆたんぽだぬきのブログ」で配信中。
http://mkayanooo.cocolog-nifty.com/blog