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INTERVIEW

別冊専門料理「日本料理の四季1」(昭和60年発行)より

料理は限りない道を探求すること

西 健一郎氏(京味 主人)
 
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焚合せの本を作るむずかしさ

 この間、「焚合せ」(柴田書店1984年発刊)という本を出しました。物を作って人さまに見ていただくということは大変なことです。本ができてからも「あれものせればよかった、これものせればよかった」と思うことがしばしばです。
 自分ではまだ不十分な面もありますが、それなりのものはできたと思ってます。オーソドックスな焚合せばかりですから応用が利く、役に立つ本だと自負しております。ただ、味は教えられません。火加減が違えば味も違うし、だし煮込みを五分したのと十分したのでは味が違う。一応、料理の作り方は書いておきましたし、間違ってはいないと思いますが、それは「私はこういう順序でやってますけど、あなたはこれを参考にしてご自分の味を作って下さい」という気持ちです。
 焚合せの本を作るということは非常にむずかしい。「こういう味ですよ」とは言葉では表現できないし、たとえゆがき方ひとつでも目の前でやってみせているのとは違いますから。でも、この本をただ見てるだけでなくて、多くの人に一品でも作ってみていただき、何かのお役に立てば幸いです。
 私も職人だった父*1に「お前はアホじゃ。味は心だ。そんなに簡単に人に教えられるもんやない」と、よく言われました。
 たしかに人に教えようとしても、なかなか味付けというものは微妙なものがあります。本を見て、形だけは完ぺきにまねできると思います。いや、料理の形だけをまねするのだったら、たぶんそれ以上のものはできるでしょう。でも個性はそう簡単にはまねできるものではありません。それは本を見てそれぞれの方々が工夫をこらし、心をこめて人に喜ばれる味付けをすることが肝心だと思います。要は、本を見て、それを自分のものにするよう、研究を重ねることです。
 初めは単なる物まねでもよいと思いますが、ただやってみることが必要です。
 織部、染め付け、黄瀬戸、志野といろいろ名のある陶芸家の先生方も、日本画、洋画、版画と有名な画家の方々もいらっしゃいますが、初めは教えてくれる師匠に作品が似てしまう。しかし、それが基礎になって、いろいろな工夫をし、創造をして師匠にまさる、すばらしい作品ができ、人の心を打ち、感動を与える。料理もそうあってほしいと思います。
 たとえば料理に美しさは確かに必要だと思います。そういうところをコピーするのは簡単ですが、「大変おいしかった、ごちそうさま」と言われるのが一番、料理人みょうりにつきる。いろいろな工夫はありますが、自分で修業を重ねて、おいしい、人に喜びを与える料理をお出しすれば、お客さまは必ずかわいがってくださいます。

店にいるときが一番落ち着く

 この「焚合せ」の本を作るときはカメラマンの方や編集の方に迷惑をかけました。というのは「何月何日の何時から撮影しましょう」ということで皆さん予定をとって下さるわけですが、そのときにお客さまが不意に入られたらどうしてもお客さまを優先してしまいますから。カメラの方たちをお待たせして、心苦しい思いをしました。
 仕事しながらですからね。その点では大変でした。撮影のときだけは店のもんにまかせて……、ということができないんです。うちには十年以上いる子が三~四人はいますから、私がいなくたって間違いはないんです。よくやっていることはわかってるんですが、どうしても自分で店に出ないと心配でいられない。一人一人のお客さまにごあいさつしたいですし、味だって、一回は自分で味見してみないと承知しない。
 だいたい外に出てると落ち着かんのです。この店始めて十八年になりますが、病気で寝たことないです。かぜなんて働いてたら治ります。もっともアホはかぜひかん、と言いますけど。

すべてに幸運だった私

 私は三十そこそこで京都から東京に出て来て、店を持ったんです。家内が江戸っ子で、両親が快く店を貸してくれた。「京味」という名前は裏千家のお家元*2さんに付けてもらいました。この名前は本当に大きな財産です。始めは裏千家関係の方がよくおこし下さいました。この名に恥じない味を出さなければいけない、この名前をけがさない立派なお店にしなくてはと一生懸命でした。
 何もわからない東京でこうして仕事ができることは、やはりいろんな人に助けられたからです。私の父は職人でしたし、妻の両親には店を貸してもらったし、もちろん伴侶にも恵まれました。そしてお客さま*3にいつもひいきにしていただいて。「あんたは幸運児やなあ」と人に言われますが、本当にそう思います。
 店*4を出したときはまだ今のように、京料理、京料理って騒がれていないときで、ちょうどそのブームのさきがけになったんでしょうか。店の名前と、ブームが一致して、いい時代に東京に来て恵まれていたんですね。
 すべてがうまく回転して、正直言って、力以上にかいかぶられているんじゃないだろうかと思います。今は、この店をお使い下さった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
 お客さまに「おいしい」と言われることだけ考えてるんです。いろんなほかの一流のお店にも行っていらっしゃるお客さんに、自分の料理を出して「おいしいですね」と言われること、これが生きがいです。「だれそれさんから、こちらのお料理はおいいしいって聞いて来ました」って初めてのお客さんに言われると、うれしくて料理人みょうりにつきますね。
 うちはカウンターとお座敷ですから、自分がいないとお客さまに申しわけがない。私が作っているということがお客にとっては安心感になるわけですし。年に数回、どうしても私が行かなければだめだという出張*5があるとき以外は店にいます。
 そういう出張があって店をあけなくてはならないときに、大事なお客さまの予約が入ったりするとつらいですね。
 お客さまといろんなお話させていただいて、飲みものからくだものまできちっと出して、車*6に乗って帰られるまでいい気持ちでいていただきたいのです。
 「ようこそ、おこしやす」とお迎えして、「来月、またお目にかかれますか?」と送り出す。もう一度、二度、三度と来ていただけるように「もうじきタケノコが出ますから」「もうそろそろあれがおいしくなりますから、またどうぞおこし下さい」とお願いする。毎日この繰り返しです。
 毎日毎日、根気よく、ふつうのことをきちっと繰り返す。これが大切ですね。京味のここに座るとなんとなく落ち着く、ほっとする、そういわれる店になりたいと思います。
 料理人は競争心がないとだめです。絶対にだめです。若いじぶん、私は京都のたん熊さんにお世話になりましたけど、同じ年ごろの料理人に対して「仲間には負けたくない」「仲間よりおれの方がいい仕事してみせる」とたえず思ってました。
 たん熊さんを出た私がいい加減な店しかできなかったらも、申しわけない。やはり一流になることが、たん熊さんへの恩返しだと思ってますし、同じようにうちにいた人が自分で店を出すならいい加減な店にしてほしくない。
 若い人を育てる責任もありますから、あとで京味にいてよかったと思ってくれたらうれしいと思っています。そんなことで毎週、先生に来てもらって若い子たちと習字も習ってるんです。みな私より上手ですよ。
 私もずいぶん怒りますけど、逃げ道のないしかり方はしてないつもりです。変な怒り方でして根性の悪い人になってもらっては困りますから。
 でも、ときどき、ふっと「えっ!? 京味!? 自分の店が京味って、何やろ……」と思うことがあるんです。毎日全力投球して十八年やってきましたけど、何にもわからないまま過ぎてしまったような気もする。何だか自分の店という実感がわかないというか。最初のころは小さかった下の子を人にあずけたり、五時から八時は家内と仲居さんが交替で店の三階で子供の世話してたり、そんなときもありました。今はなつかしいですが、そのときも全力投球でした。
 いつでも、もうちょっとだ、もうちょっとだと思ってるんです。これでええわ、いうことがない。ここまではやってきましたけど、お客さんがどんどんぜいたくになってるから、また大変です。
 これからももっとお客さまに喜ばれるお店にするよう勉強したいと思います。料理は本当に限りなく奥深いものだとこのごろますます思うようになりました。いくらきわめようとしても、きわめつくせないところがある。だから、私はこの仕事が好きなのでしょう。
 毎日、健康で楽しく仕事をしたいと思っています。そして、これからもお客さまとの出会いを大切にしたいのです。
 おいしい料理を召し上がっていただくことはもとより、お客さまとのお話、料理をお出しする間のとり方、温かいものは温かく、冷たいものは冷たく、そして素材の持ち味をどう生かすか、一層の研究を重ねたいと思います。

*1 故西音松氏。京都のたん熊や瓢亭で仕事をした。
*2 千宗室氏。
*3 顧客に贈られたちょうちんには、橋本明治、梅原龍三郎、杉山寧、吉行淳之介、谷川徹三、尾上松緑、片岡孝夫などなどの名がみられる。
*4 昭和四十一年開店。西氏は当時四十七歳。
*5 京味は出張が多い。弁当を届けることから、出張先で料理を作ることまで。ただしお茶事の出張はしないことにしている。
*6 西氏は必ず店の外までお客を送り出し、車を見送る。