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INTERVIEW

月刊専門料理 1982年4月号「料理ということ」より

主張することを持つ生き方が大切だ

高橋忠之氏(志摩観光ホテル元総料理長)
 
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私の皿にフランスがあってはいけない

 生意気だと思われるかもしれませんが、私の料理を食べていただいた客の前には″どうだ、旨いだろう″という姿勢を持って出ていきます。自分の仕事に対する誇りと自信を持ち、志摩の自然とそこに産するいい素材を持つ料理人にとって、調理後にこれほどぴったりくる言葉はないのではないか、と思うのです。
 私の料理を食べにフランスの三ツ星のシェフが何人も賢島に来てくださいました。その時、何人かのシェフが″あなたの作った皿にはパリがあった、フランスをみた″と誉めてくださったのですが、私はその時に私の皿にパリがあっちゃいけない、フランスがあっちゃいけない、これはあくまでも私の料理だ、伊勢志摩の産物で作り上げた賢島、つまり私の料理なのだ、このことを主張しなければだめだ、と思ったのです。
 フランス人の料理人はすべて″我々の料理は、ライバルのない芸術だ″と思っています。つまりフランス料理は、フランスの歴史であり文化であり、芸術である、フランス以外の何ものでもない、ということなのです。私の作る料理は、それに対して、志摩というすばらしい自然の恵みに火を加える、火を加えてより新鮮なものに作り変える。すべてを一度ぶち壊して作り変え、そして自然の旨さというものを追求する。それが私の料理であり、だから私の皿にフランスがあってはいけないのです。ではお前はなぜ日本料理を作らないのか、と思われる方もありましょう。私は、日本を含めた東洋、フランスを含めた西洋、その違いをふまえながら、フランス料理の方法に魅力を感じるのです。伊勢エビは火を加えても伊勢エビ以上になり得るんだ、そうしてみせるんだという願い、あこがれを持って、一皿に驚きと喜びを盛りたいと思っています。
 そのために私は黒潮と親潮に目を向け、海に大きな魅力を感じながら魚を追いかけているのです。料理とはそんなにむずかしいものか、これもよく私は質問されます。むずかしいのです。ひとつの物事を追いかけていけば立派な学問になり、技術とか技能とかいうものは立派な芸術、美になります。それが時代を経ればひとつの文化になるのです。じゃあ料理人は芸術家なのか、文化人なのか。私はそんな大それたことを申し上げているのではなく、料理人の世界に生きるなら、言葉をひっくり返して世界の料理人にならなくてはならない、そうして料理を追求するにも、もっとしたたかな追求の仕方があるのではないか、といってるのです。例えば一枚の絵を見て感動したとして、百科事典を聞きかじってしか感動できないのでは料理人として失格だ、その絵からひとつの歴史、文化といった系統だった見方のできるしたたかな視点を持った料理人にならなくてはいけない、と申し上げているのです。
 料理しかできないといういい方がありますが、これは大変なことです。世の中には何もできなくてものさばっている人間がたくさんいるのです。料理というものは割烹だけでない。古代ケルト人が火をともした時、まず灯りとして、そして暖かさを、三つめに食べるという願いを込めて火をともしたはずです。食べる、ということには立派な歴史があり、フランス料理を分るということは、その歴史、風土、文化が分り、美意識が分るということなのです。

師匠は客、稽古も客

 私は15歳で調理場に入りまして29歳で料理長をさせていただきました。私にもし人と違うものがあるとすれば、人との出会い、客との出会いがあったということだと思います。一皿を主張することによって客の言葉を引き出し、その中からもっと旨いものを作る気持を生み出しました。そうした意味で師匠は私にとっては客であり、稽古も客だと思っております。そして私の主張する料理を客にお出しするために、誰よりも多くストーブの前に立ち、誰よりも多く包丁を握り、ひとつの料理を完成するために、いく度となくテストを試みます。バイブルといわれるエスコフィエのAからZまでの料理の試作をやり通します。そうしたことの中から初めて即興が描け、主張する料理が作れるのです。
 画家や作曲家など芸術家の多くが主張できるのになぜ料理人が主張してはいけないのか。医食同源という言葉がありますが、食べるということは人間の心と体を作るみなもとなのに。そうある方にお話したら、料理は心に残る芸術だ、と答えてくれました。フランスのある人の言葉に「お前の人生にとって何が一番幸福かと問いかけたら、みんな食べる場面にぶつかった」というのがありましたが、食べることの大切さということをもっと認識してもいいのではなかろうか、と思います。料理人である私は、いかに客に喜びと驚きを与えられるのか、ということを追求し、主張します。それがない料理は単なる食べ物にすぎない。私は自分が作る料理は絶対に旨い、と思っているし、まずいと思う客が悪いという自負を持って仕事をしています。それがまた料理長の使命でもあるのです。まず旨いものを作る。そして、売れるものを作る、それによって儲ける。そのためにも作ることに喜びのある職場にする。生きがいのある職場で生まれた料理でないとだめだ、ということだと思うのです。私は必ずホテルにいます。それが、わざわざ志摩に来ていただいた客に対する、最低限の努めだ、と思っております。
 私にトマトクリームスープ、クリームコーンスープを食べさせてほしい、という客がいました。もちろん私は断わりました。あなたが志摩に来る途中にトウモロコシの畑が眼に入ったか、入らないものを作っちゃいけない、作れないのです。せっかくここまで来たのなら私の作った料理を食べていってくれ、と私は申し上げるのです。作りたいものを作るというのは料理人の主張です。好きな料理、作れる料理しか作らない。逆にいえば、これは私にしか作れない料理なのだ、という主張なのです。
 私があまり志摩の料理ということを主張しますと、お前は何故フランス料理を作っているのにフランスに修業に行かないのか、といわれます。行くにこしたことはないけど、行かなくたっていいじゃないか、いや、行かなくても勉強の仕方、時間の使い方はあると思うのです。たとえばフランスに勉強に行って帰って来てすばらしい絵を描く画家もいます。でも、フランスに行かなくとも、たとえばあの″海の幸″を描いた青木繁のようにすばらしい画家がいるじゃないか、と思うのです。天然、自然の法則を忠実に守るというフランス料理の調理原則、そしてフランス人的な考え方が好きなのです。その方法を見すえながら、次の時代にも主張し得るものを生み出すことに全力をあげていきたい、と思ってます。
 主張することを持つ生き方、それを一皿を通じて客に提供すること、このことはとても大切なことだと思うのです。