人生、飛ばなきゃいけない時がある
1日100円の超耐乏生活が糧になった
当時は県立諏訪農業高等学校といったかな。農業高校なんですよ、私の出身校は。農業高校出の食堂経営者というのも珍しいと思いますよ。18で卒業して27歳まで10年間農業に従事しました。その間、新しい農業形態追求をめざして酪農もやりましたし、花の栽培にも手をそめました。
今から思うとちょっと気恥ずかしい気持ちもありますが、農村が極端な文化と情報の格差のもとにしいたげられていることに対する義憤を感じて、仕事のかたわら農村文化活動というのか、演劇運動にも入れあげたものです。専務の横川端なんかも凝り性で、いっしょに劇団を作って公演をしたこともあります。諏訪演劇集団なるものを結成したのです。「股旅的な精神風土からいかに農村を離脱させるべきか」なんてことを口角泡を飛ばして論議するわけです。とくに真山美保の新制作座の「泥かぶら」を観た感激は今でも忘れられません。青年座をわが村によんで大赤字を出して、1年間農業仕事の合い間に土方して仲間と借金を返したことも今となってはなつかしい思い出です。
10年間の農業従事を通じてわかったことは、徳川300年の「生かさぬように、殺さぬように」という政策が構造的に脈々と受け継がれて農村は豊かにならない仕組みになっているということです。はっきり言って、ぼくはあの時点で農業を見限ったんだと思いますね。「どうあがいても仕組みは変えられない」という気持ちが支配的でした。そういう意味では痛みというものは、あります。
仕事は目的完遂のための手段にすぎない
東京には、それ以前出稼ぎの形で、農閑期に働きに出てきていました。私は海苔店の店員で働いている期間がいちばん長かった。しかし昭和36年、弟たちと東京に出て来た時には、はっきりした目的をもっていました。当時はスーパーマーケットという概念はまだ普及していませんでしたが、新しい概念の乾物店を持とう、という目的が。そのために自己資金150万円を石にかじりついてでも貯めなければならない。3人とも身体だけが資本ですからそれはムチャクチャな資金調達計画をたてました。まず3人が昼の仕事と夜の仕事の2つをかけ持ちする。部屋代と米代を共同生活で負担するほかは、1日の行動費はひとり100円。昼食代を含めてね。酒、タバコは無論厳禁。常務の横川紀夫なんか、昼は運送会社に勤め、夜はバーテンダーに早変わりするという毎日。若いとはいえよく身体がもったものだと思います。
この超耐乏生活は、ちょうど1年半続けました。昭和36、37年といえば、世間ではそろそろ物資も豊富になりかかっていた時期ですし。だれもが一様に貧しかった終戦直後とは時代がちがうわけです。それでも、しんどいことをしている。みじめなことをしているという気持ちはまったくありませんでした。楽しんでいる、というと多少語弊があるかもしれないけど目的があるだけに、毎日毎日が非常に緊張しきっていました。それでね、今考えてもあきれるんですが、仕事は目的完遂のための手段にすぎないはずなんですが、それぞれシャカリキになって働いていたんですね。手を抜く、ということはしなかった。私の勤めていた海苔店の店主は人に金を貸すなんてことは、生まれてこの方やったことがないという徹底した男でしたが、辞める時には、新事業のためにポンと120万円貸してくれましたよ。感激もしましたが、それより面喰っちゃった。
喰うものも喰わずにハングリーに150万円を貯めたことが、かならずしもベストだとは思いませんが、1年から1年半何か夢中になってやってみるものを持つべきじゃないでしょうか。これは30歳を過ぎてからではできないことなんだ。20代の体力も気力も充実しきっている時でなければ、とてもしんどくてできるものではないのです。そこで気力も体力も燃焼し尽くせるような目的を設定することは大事なことのような気がします。ただし、この目的は何であってもよいと思うのです。大切なのはプロセスなのです。
味も単位もすべてお客様に応えた
1年半の資金集めの末、昭和37年4月「ことぶき食品」第1号店という名のスーパーを出店することができました。スーパーといっても店舗面積はわずか7坪。当時、団地の住人相手の商売はぜったいに成功しない、という定説がありましてね。つまり、家族単位が小さい。今でいえば核家族である。キャベツにしても1個買えば、使い切るまで1週間キャベツばかりを食べなければならなくなる。あらゆるものの消費単位が小さいので、既存の商品単位ではニーズに合致しない、というのが、その団地商売不成功論の根拠なわけです。
確かに団地立地でバタバタつぶれて撤退する店も見ているわけですが、「よし、その不成功論とやらをくつがえしてやろうじゃないか」というわけで、ことぶき食品では、何でもお客の求める単位で売ることに徹したわけです。もうひとつの方針として、新鮮な食材を豊富に集めることも徹底的に実行しました。
それから店のイメージを当時のものとガラリと変えた。まずわれわれの服装をそろいのネクタイにこげ茶の背広に統一しましてね。斬新そのもので、週刊誌にも取り上げられたくらいです。それからクレンリネスなんていう言葉こそ知りませんでしたが、店舗の色の使い方、商品の陳列などをスカッとさせて、清潔感では、どこの店にも負けなかった。
商品の小単位主義を導入すると同時に、ニーズに合った味付けにも気を配ったものです。たとえば、しらす干しなんかは、団地では赤ん坊の離乳食として売れるのですよ。ところが一般のしらす干しは塩味がキツすぎる。そこで、塩味を弱めたものを集めます。当然新鮮さがより要求されます。でもニーズをがっちり捉えているから、あきれるくらい売れるんだ。たくさんを安く売ることに徹していましたから、言葉は適当ではないかもしれませんが、お客にペットのように可愛がられまして、必要なものは、あらゆるものをことぶき食品でまかなうという、熱狂的ファン層が形成されたわけです。7坪の店で月商400万円を売っていましたから、当時としては超繁盛店でした。なにしろ、これくらい売ると、築地では肩を切って歩けるんだ。「ヨッ!」といった調子でね。すぐ頭に乗っちゃうおっちょこちょいなところもありますから…。
しかし、ことぶき食品を6店出した頃から、限界が見えてきましてね。ダイエーもある、イトーヨーカドーもある。これからあの規模まで行くのはやや絶望的だ。で、いってみれば最後の跳躍を食堂業でやってみよう、と決意したわけです。
飛ぶのが恐くなかったか、というのですか。そりゃ恐い。恐かったけれど、人生何度か飛ばなければいけない場面があるのだと思います。当時6店で年商4億円弱を売っていましたが、あれが10億近く売っていたら、飛べなかったかもしれない。ラッキーだったと思う。そういう意味では、多分に運命論者なのです、私は。