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INTERVIEW

別冊専門料理「日本料理の四季6」(昭和62年発行)より

つねに戦いに挑む気概を持つ

道場六三郎氏(ろくさん亭 主人)
 
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逆境をむしろ喜びとして戦いに挑むと道が拓けてくる

――女三人、男三人の六人兄弟の末っ子だから六三郎と名づけられたという道場六三郎氏は、昭和六年に石川県江沼郡山中町に生まれた。山中は漆器の町である。道場氏の実家も茶道具を中心に制作する漆器店を営んでおり、幼いころからウルシを塗り、蒔絵を描くという環境の中で育った。

 ところが僕は、座って静かにウルシを塗ったりするのが嫌いで嫌いでたまらなかったんです。あこがれていたのは魚屋。当時は魚屋が仕出しもやっていましたから、魚屋がハチマキをしめて自転車に料理を積んで走る姿が、子供ながらに〝いいなぁ、粋だな〟と思ってたんです。
 ところが、ひょんなことから魚屋のほうからぜひ手伝いに来てくれないかという話がきましてね、僕はまだ学校に通ってたんだけど、戦後間もないころのドサクサ時代だったし、二つ返事で手伝うことに決めたんです。(中略)

――昔の魚屋は、出入りの旅館などに御用聞きに行くと、まずその店の洗いものなどを手伝って、一緒に洗ったものだという。それが終わってから注文をとって帰るというのが常だった。道場氏も吉野屋という旅館の調理場をよく手伝った。そんなこともあって料理の勉強をしよう、どうせなら東京に出て料理の修業をしようと考えた。

 東京の一流料亭「新喜楽」の女将だった木村さくさんが当時、所得番付の一位だったんですよ、確か。僕はすごいもんだな、と感心して、この店に入りたいと思ったんです。ちょうど金沢の「治作」という店の主人のつてがあって、結局「新喜楽」に入ることができたんです。
 ところが、ものの一ヵ月もたたないうちに同輩とケンカしてしまいましてね、せっかく入った「新喜楽」を飛び出してしまうんです。
 そこで、やはり「治作」の主人の紹介で「大京会」に入るんです。そして小倉和己さんの下で半年くらい「くろかべ」という店で働いてから、杉本成次郎さんという人と出会って、一緒に神戸に行くことになりました。「神戸観光ホテル」というところでした。
 杉本さんという人は実に盛り付けの上手な人でしたね。品のいい盛り付けをするんです。加えて器に対する見識を持っていましたから、なおさらいい盛り付けに見える。今から考えても杉本さんの料理は素晴らしかったと思います。
 それと杉本さんがすごかったのは、あっちこっちの調理場にどんどん勉強に出かけたこと。「ちょっと見せて下さい」と裏から料理屋に入っていって、調理場で「この味見せて」といって指をさっと入れて味見したり。もちろんそんなことする人はいないから、嫌われてたようですけど、本人は一向に平気なんですね。僕は、あのようにどこの調理場にも顔を出す料理人を他に知りませんね。
 そして必ず店を繁盛させるんです。神戸観光ホテルと同系列の「六甲花壇」に移った時のこと。杉本さんは六甲の駅前に「関西きっての包丁人、杉本成次郎来る」というチラシを貼りましてね、まるでドサ回りの役者みたいに。我々はそのチラシを駅前で配るわけです。そのように積極的に店の繁盛を考えてたんですね。

――神戸から金沢の「白雲楼」に移り、約三年ほど経った頃「大京会」の柳内福一さんから、東京・芝浦の「ぼたん」にぜひ来てくれないか、と声がかかる。そこで煮方で東京に戻った道場氏は、一年半の後、赤坂の「常盤家」で井垣圭弘氏の二番として入ることになる。

 この店は総理官邸とか衆議院の議院会館とか大きな施設の料理を幅広く担当していましてね、毎日とても忙しく厳しい仕事内容でしたね。出張料理なんかを覚えたのも、この時でした。のべ八年いて、後半の四年はチーフでしたから、責任もあって大変でした。なにしろ出張料理の時には天ぷらの設備、握りずし、おでんの設備と、すべてをセットにしなければなりません。それと氷。氷彫刻をやったのも、ここで働いてたからですね、何しろ冷房のない時代でしたから夏は氷彫刻、花氷などが不可欠なんです。
 氷彫刻はコンクールで優勝したこともあります。講習会の時に先生で来てた小林秀行さんと気が合いましてね。氷彫刻も結構カンどころをつかんで上手く彫りましたから。よく小林さんから電話がかかって、ホテルオークラの冷凍室で氷彫刻の手伝いをさせられたりしたものです。
 夏の宴会や出張料理では、常盤家では井戸をわざわざ掘って客が来る前に竹筒に穴を開けてザーッと降らせて気温を下げるとか、座敷の中央に花氷、氷彫刻、氷柱なんかを置いて冷たさを演出してたんです。臨時国会の時など、二五〇本くらいの氷を会議場の後に置いて、扇風機をかける、なんて今では考えられない苦労をしてたもんです。ここで覚えた出張料理の技術はその後、独立してから随分役に立ちました。

――独立する前に、その原形ともいえるビルの中のスタンド割烹「とんぼ」の料理長として活躍する。この時は店は繁盛させたのだが経営者が高利貸から金を借り、道場氏の金も使ったが不渡りを出し閉店。道場氏は同じビルに共同経営で「新とんぼ」を開店するのである。昭和四十三年のことである。

 もちろん繁盛はしたんですが、小さな店に経営者が二人いると、命令系統も二つになるから私の意志が従業員に行き渡らないんです。必ず店の内部が二つの意見に割れてしまう。これじゃあ料理長としても経営者としても困ると思い共同経営者に権利を譲り、それを元手に「ろくさん亭」を独立開店させることになるわけです。

僕は、どうやったら店まで客に来てもらうかを真剣に考えました

――昭和四十六年である。以来一七年、銀座といえどビルの八階、九階という不利な条件にもかかわらず「ろくさん亭」はいつも満席の盛況である。その秘密は、道場氏が「とんぼ」時代に築いた信用、サービスの技術、料理内容などにある。

 ビルの上階で料理店を開くなどというのは、それまではなかったのです。ですから僕は、どうやったら店まで客に来てもらうかを真剣に考えました。まず店の男性に着物を着せ、角帯をしめさせました。そして彼らに、銀座のクラブのママ、評判の良いホステスの名前と誕生日を調べさせて、誕生日には必ず店に、うちの男性が花束を持っていったのです。これは喜ばれました。
 とにかく僕は客を一度でいいから店に来てもらうにはどうしたらいいのか真剣に考えたのです。このような私たちの汗水たらした真剣さは結構スタッフにも伝わったし、花束を持っていった女性たちにも伝わったと思います。少しずつ客が定着していきました。
 もうひとつ、サービスの女性が、客の注文を売切れという理由で断わると、叱責し、クビにしました。客は食べたいから注文しているのに、それを売切れという一言でつき離すのは、もってのほかです。代りにどんな料理があるかをお教えすればいいのですから。「イサキの塩焼きね」「恐れ入りますがイサキはなくなってしまいました。でも代わりにいいカマスがありますが、いかがでしょう」このくらいのことが言えなくては、サービスは務まりません。
 ある時、客が間違って他の客のコートを着て帰ってしまう、という事件が起こったことがありました。間違われたほうの客はカンカンに怒っているのですが、どの客が間違ったのかも分からず、困ってしまいました。この時は手分けして深夜から朝方にかけて捜し歩き、やっと捜し当ててコートを取り換えた、ということもありましたね。
 客に店に来てもらうために、どんなことでもキメ細かく対応していかなければならない、ということだと思うんです、客の身になって物を考えて。出張料理なんかも、それで儲けるというほどの規模じゃありません。でも客がぜひと望んでいるなら、喜んで引き受けなければならないと考えて対応しました。一〇〇㎞以上離れた場所でもトラックを仕立ててよく行ったものです。そのために規模によっては料理人を幾人か助っ人に頼んだり、氷を一〇~二〇本積んだり、結構大がかりにもなりました。
 今の僕にそれをやれと言われても、なかなか実行できませんが、でも本当は初心に帰って、そういう努力は続けなければいけないんでしょうね……。
 こうした積み重ねが、いざ自分が店を開いた時に力を発揮してくれるのです。よく、自分が以前に働いていた時の客をとっては悪いな、などと言う人がいますが、僕は商売とはそんなもんじゃない、と思っています。自分が生きるか死ぬか、という時にそんな「きれい事」を言ってたんじゃ、生きのびてはいけないと思うからです。商売とはそんなものじゃない、戦いだと思います。負けたら終わり、戦い続けなければならないのです。

――料理も、すべての料理が〝食べて旨い〟というものでなければならない、と道場氏は言う。カウンターから客の要求に応えてきた道場氏ならではの考え方である。

 見た目がいかにきれいに見えるように小細工をしても客にはぜったいに受け入れられない。食べて旨い!と言わせ続けなくちゃ負けだと思っています。素材そのものの持ち味を崩さずにすっきりと出す。そういう料理に徹したいと思います。しかし、それが意外とぜいたくなことなんですね、今の時代は。
 自分が日本料理の世界にいるから言いにくいんだけど、でもあえて言うと、必ずしも先輩の仕事を受け継ぐことだけが大切じゃないと思っているんです。客に食べて旨いな、と思わせるものならどんどんやればいい。たとえフランス料理や中国料理からヒントを得ても、日本料理人が作ると、やはり日本料理になるもんですよ。僕は、伝統なんかにこだわるよりは、食べて旨いもんを作るべきだと思っている。
 しかしこの事も、ベテランにのみ通用すること。基本を二〇年以上ぴしっとやった人じゃないと、何が何だか分からない、ガチャガチャ料理になってしまいますからね。
 そうはいっても今の時代、見せるだけの料理や、何が何だか分からない料理が結構世の中に受け入れられていますからね。哀しいですね、こういう現実は。でも、今に分かるなんて言ってられないから、たとえ時代に多少おもねったとしても、彼ら若い連中には絶対に負けたくはないね。僕は。
 できることなら二刀流は使いたくないですけど、時代に会った料理を作っていくのも、料理人として大切なことですからね。

――道場氏は、常に戦いに挑む気概を持っているつもりだ、と言う。どんな逆境にあっても、それをむしろ喜んで受け入れていく姿勢を、常に持ち続けている。

 たとえどんな逆境にあっても、僕よりつらい男は世の中にたくさんいるんですね。そう思うと、むしろ〝逆境にある喜び〟みたいなものを感じるんですね。そして、ありがたい、生きのびたな、と手を合わせる気持ちになるんです。ですから僕は、どんなに金がなくなっても自分で生きていける、という自信があります。
 たとえば河岸に行くと、よく物が落ちていますね。その中には食べられるもんが随分と落ちていますよ。だから僕がたとえ一銭も金がなくても、歩く足さえあったら、それらを上手に加工して生きていけると思うのです。ということは最後は健康ですね。健康でありさえすればどうにでもなる。神に祈るとしたら、我に健康を与えたまえ……です。

――この強さは、神戸時代に理不尽に打ちのめされた経験が土台になっているのだという。

 この時の料理長は自分の能力以上のことを私たちに求めたんですね。しかもだんどりが悪い。ですから仕事に文字通り追いまくられるわけです。こうなると人間というものはクソ度胸ができてくるんですね、いわば居直り精神。僕は何を言われても黙って手だけはすごいスピードで動かし続けました。何か言われるたびにウロウロしてもしょうがないですからね。手だけは早く、手だけは早く、と念じながら仕事をしました。よく「お前は駆逐艦か」と言われたものですよ。それぐらい素早く、黙々と働いた。
 この時の料理長を、今だからといって評価はしていません。やはりダメな料理長だと思うし僕にとっては、そういう人の下でがまんできた自分をほめてやりたい、という気持です。そして、この経験が自分自身の根性みたいなものを作ってくれましたね。決して何が起こっても動じない、図太さみたいなものといってもいいでしょうか。