怖がらずに一歩を踏み出す
多くの芸能人のファンを持ち、マスコミにも頻繁に取り上げられる焼肉店「叙々苑」は、いまや外食における“絶滅危機種”ともいえる「憧れの店」のひとつだ。このチェーンを裸一貫から築き上げたのが、創業社長である新井泰道氏だ。
――同社の主カブランドである叙々苑の客単価は8000円。最上級ブランドの「海玄亭」に至っては1万3000円である。この単価でこれだけの規模まで多店化しているケースは、外食業界を見渡してもひとつとして存在しない。まさにオンリーワンの存在である。
新井氏は常々、「お金があれば高級な店はできるが、お金だけでは一流の店にはなれない。われわれがめざすのは一流の店だ」と語っている。そして一流と呼ばれるために大事なのは、素材や人材の質だけではなく、他が真似のできない技術であると胸を張る。
神奈川県横須賀氏で5人兄弟の真ん中に生まれた新井氏は、東京・神田の焼肉店「大同苑」で恩人ともいうべき人物と出会う。店を切り盛りする花柳界上がりの女将である。16歳の多感な時期から29歳の時までの約13年間、新井氏は女将からさまざまなことを学んだ。
商品のプレゼンテーションやサービス、インテリアなど、叙々苑が他の焼肉店とは一線を画するセンスを持つことができたのは、この女将の教えがあったからこそだと新井氏は言う。
「たとえば、色の組合せ。焼肉店は色映えなどは気にしないものでしたが、女将は白い皿に盛り付けた肉に青いネギを添えて、おいしそうに見えるように工夫を凝らしていました。また、在日の方でしたから、焼肉店の料理のルーツを知っている。こういったことを多感な時期に叩き込まれたわけです。
わたしも一所懸命それを吸収しようとしていたからか、19歳の時には調理長を命じられ、それから店を閉める29歳の時まで女将にはずっとかわいがってもらいました。仕事は朝から深夜までやはり13時間ぐらい働き詰めで、トイレでしゃがむことができないぐらい筋肉はパンパン。仕事が終わったら銭湯に行って、垢だらけの終い風呂に入って寝るだけという毎日。でも、辛いと思ったことは一度もなかったなあ。仕事が楽しかったし、仲間がいることが幸せだったんです。
休みは年に10日もなかったけれど、交代で休むわけですから、休日は逆に寂しいんです。店に行けば仲間がいるし、自分の能力が上がっていくこともわかる。私がいつも『楽しい職場であれ』と言っているのは、この時の経験があるから。職場に長がいるのは、そのためだと思っているくらいですから。
ちょうど高度成長期に入り、世の中がざわざわしはじめていた時期だけに、人の出入りは激しかったですね。でも、私は大同苑を出ることは少しも考えていなかった。ずっとこの店で働いていくつもりだったんですが、私が29歳の時に土地問題で店を閉めることになったんです。それがなかったら独立もしなかっただろうし、今日の自分もなかったでしょうね」
金は払うけど要求も高い。そういうお客がいる場所がいい
――退職金として受け取ったのは100万円。70年代初頭の飲食店の退職金としてはかなりの額である。それだけ新井氏が大同苑の営業に貢献してきたということだろう。
その後、小さな焼肉店に調理長として入ったものの、経営者と合わずにすぐに退職。いよいよ自分の店をはじめることになるのだが、その第一歩は神楽坂にあった「食道園」というリースの焼肉店であった。規模は12坪、テーブルが5~6卓という小さな店で、退職金の100万円と貯金120万円のうち、200万円を投じて開業した。
ここで新井氏はホールに立ち、お客の声に注意深く耳を傾けた。というのもこれまで働いてきた焼肉店の先輩たちのほとんどは、営業は続くのに勝手に辞めてしまったり、「おいしくない」というお客に対して「味のわからない客はいらない」と吐き捨てるなど、お客のことをまったく考えていなかったからだ。実際に大同苑で調理長になった時も、料理をつくることに一所懸命になってしまい、視野が狭くなることを実感していたのである。
「営業前に仕込みはするけれど、営業中は後輩に調理場を任せた。ホールに立つことで、お客さまが何を望んでいるのかということがわかるようになり、目からウロコが落ちる思いでしたね。それから料理のほうにも磨きがかかっていきました。そういう意味では、お客さまこそが商売の師匠でしたね。ホール出身者の方が経営者として成功する確率が高いと思っているのは、この時の経験からです。
自分で言うのも何ですが、愛想もあったし、まじめにやりましたから、そのうちに安くておいしい店という評判をいただくようになりました。とにかく地元密着を心掛け、ランチから夜中の2時までみっちり営業しました。当時の客単価は2000円ぐらいでしたが、私がはじめる前は1日2万円程度だった食道園の売上げは、3年後には7倍の14万円まで跳ね上がりました」
――着々と資金を蓄えつつ、リース店舗から卒業し、真の意味で独立開業を果たす場所として新井氏が考えたのは、同じ肉をもっと高く売れる場所であった。肉屋とは大同苑の調理長時代からの付き合いだから、東京のどこで営業しようが仕入れ価格は変わらない。「だったら高く売れる場所で営業するほうが得ではないか」と考えたのだ。しかし理由はそれだけではない。
「いま振り返えると、銀座や赤坂、六本木といった上町は高く売れるだけでなく、客層が下町とはまったく違った。一語で言えば、外食に求める水準が非常に高いんです。高いお金を払ってくれるけど、そのぶん黙ってはいない。そこから教わることは多かったですね。いい店をつくりたいのなら、そういう立地に出て行ったほうがいいということでしょう。
当時は銀座と赤坂を中心に物件を探したのですが、予算を考えるとなかなかいい場所がない。ようやく見付けたのが、旧防衛庁の向かいにあるビル。スナックに挟まれた3階の物件でした。いまでこそ『東京ミッドタウン』の向かいという晴れ晴れしい立地になったけど、当時は六本本の外れで夜は真っ暗。人なんかほとんど歩いていなかった。だから最初は大変でしたよ。電飾看板を外に出しては警察に注意されて引っ込め、しばらくしてまた出す、なんていうこともしてました」
肉屋が「絶対旨い」と太鼓判を押したのが賄いのタン塩だった
――1976年4月に開業したこの店こそが叙々苑の第1号店であり、現在の叙々苑六本木本店である。後に6倍の規模に拡張されるが、当初は18坪からのスタート。投資額は3300万円。うち1900万円は借入れだった。
当時の六本木は銀座の跳ね客、つまり銀座で遊んだお客がクラブのホステスを引き連れて遊びにくる街であった。それを意識した新井氏は、まっ赤な絨毯を敷いて生花を飾り付け、洒落た店づくりを施した。
ホステスがお客を連れてきてくれるように、開業直後は銀座に遊びに出掛けて宣伝に努めた。しかし、4~5回行っただけでやめてしまったという。
「クラブに行くと1回で6~7万円かかるわけですよ。確かに遊びに行った直後は十数人で店に来てくれるのですが、売上げは4万5000円ぐらいにしかならない。これでは割に合いませんよね。だったら、一度ご来店いただいたお客さまにまた来てもらう努力をしたほうがいい。
それではじめたのが、お客さま全員にメロンをサービスすることでした。当時の1日客数は20~30人でしたから、全員にお出ししても月10万円程度。銀座で遊ぶよりも安いんです。これは話題になりましたよ。いざ会計の段になった時、メロンの支払いがないわけですからね。みんな『えっ』て驚いていた。これをきっかけに、半年後には店に入りきれないほどのお客さまにご来店いただけるようになりました」
――そうなるとコスト的にメロンではやっていけない。ブドウやミカン、ナシといった季節のフルーツに切り替えたものの、客数は増える一方だからフルーツの皮を剥く暇も惜しくなる。そこで思い付いたのがアイスクリームを提供することだった。
こうしたサービスをはじめ、新井氏が叙々苑を通じて焼肉業界に定着させた商品やサービスは枚挙に暇がない。中でも最大の功労といえるのが、いまや焼肉店の定番商品となった「タン塩」を世に出したことだろう。これは六本木で店をオープンした時から、メニューに加えていた。
「六本本で店をオープンするにあたって、何か目玉商品が欲しいと肉屋に相談したところ、『タンをやりなよ』と。『俺たちは塩をかけて焼いたのを賄いで食べてるけど、絶対おいしいから』って言うんです。当時は東京でタンを扱う店といえば、タンシチューを出している洋食店ぐらい。もっとも一部の焼肉店ではたれ焼きのタンを提供していたそうですが、塩焼きを出したのはうちが初めてでした。最初は塩だけで味付けしていましたが、これにレモンだれを添えたことで爆発的にヒットした。人気があり過ぎて売価を上げたんですが、それでもばんばん売れる。他の焼肉メニューの原価率が30~35%ぐらいだったのに比べ、単品原価率はそれより10%低い20~25%でしたから、収益性も抜群でした。
レモンだれを添えるようになったのは、銀座のホステスの『火傷しそうだからレモンを切ってちょうだい』というひと言がきっかけ。これでさらにさっぱりと食べられるようになったことが、人気に拍車をかけたわけです。
いま思うと嗜好が変化する時期ともタイミングが合ったんでしょうね。戦後は甘いものに飢えていたから、昔の焼肉のたれって甘みがあったじゃないですか。でも豊かになってくると食の嗜好も変化し、甘みを食事に求めなくなってきた。そういう変化があの当時からはじまっていたんじやないかな」
――新井氏は「神楽坂の店でホールに立つようになってから料理に磨きがかかった。その意味ではお客さまが商売と料理の師匠」と懐述するが、ホステスのひと言からはじめたタンのレモンだれは、その典型的な例だろう。上カルビという商品もこれと同様にして生まれたという。
「とにかく店前の通りは真っ暗。宣伝するお金もないから、来てくれたお客さまにはすがりつきましたよ。『六本本で初めて自分の店を持ちました。どうか助けてください。自分は板前上がりなのでお望みの通りいかようにも調理します』と言ってね。それを聞いたお客さまは『俺が何とかしてやろう』と思ってくださったのでしょう。ほとんどのお客さまが翌日に友達を連れて店に来てくれました。ただ、お客さまが増えていっても、望み通りに調理するという姿勢は貫きました。
上カルビもお客さまの希望に応えてメニュー化した商品でした。やはり銀座のホステスのひとりが、脂の部分をカットしたカルビがほしいと言ってきたんです。言われた通りに提供すると、他のホステスたちもそれをこぞって注文するようになった。でも、脂の多い部分をカットするわけですから歩留まりが悪い。そこで原価のバランスをとるため、『上カルビ』という名称にして価格を上げて提供したんです。
それがホステスたちの間で評判になり、彼女たちの口伝えで同業者に広まっていったわけです」
いまの味にしがみつく必要はない。どんどん変化させるべき
――お客の声に耳を傾けるということにおいて、新井氏は常に真剣である。本音を探るために、店を出たお客が降りるエレベーターに何食わぬ顔をして乗り合わせることもしばしばだった。お客同士の会話を盗み聞き、評価の低かったメニューは、すぐに味付けを変更するといった改善を行なったのである。
「素直だったから、味を変えることにためらいはなかった。だって、お客さまがまずいというものはまずいんですから。もちろん悩むけれども、悩みがなければ成長もできませんからね。ですから、叙々苑は創業の時からたれの味から何から何まですべて変わってますし、これからもどんどん変化していきます。時代によってニーズは変わるんですから、いまの味にしがみつく必要なんてまったくない。
よく『昔ながらの素材や調味料を頑なに守る老舗』という表現があるじゃないですか。でも素材だって調味料だって昔といまでは味も質も変わってるし、いまの人と昔の人では味覚も違う。
それに敏感に対応していかないと、お客さまはどんどん離れていつてしまうんです」
――こうした努力がお客を呼び寄せ、新井氏は叙々苑の両側のスナックを買収して店を3倍の規模に拡張。さらに行列が2階まで続いたことから、2階のステーキ店の営業権も買い取り、2フロア110坪の規模まで広げた。それでも深夜までお客が絶えることはなく、客単価3500円ながら月商7000~8000万円を売る大繁盛店に叙々苑は成長する。
その後、麻布十番、新宿区役所通り、高田馬場、目黒と出店を進め、そして1991年にオープンした「滋玄亭」西麻布本館で、ついに叙々苑は高級焼肉店としてその名を全国に轟かせた。
「六本本は予約もとれないし、個室もないということで、以前から何とかしてほしいという要望が多かった。そこで西麻布本館は個室中心の客席構成にしたわけですが、そうなるとテーブル数が少なくなる。これは値段を上げざるを得ないな、となったわけですが、そのためには、お客さまにそれだけの価値を提供しなければなりません。内装に力を入れたり、接客サービスに力を入れるようになったのには、そうした事情があったんです。
接客係に優秀な女性を揃えるために、周りの時給が1000円なら1600円にしたし、ユニフォームも着物にするなど、女性が働きたくなるような環境をつくった。いま毎年100人ぐらい入社する新入社員の5~6割が大卒ですが、その大半が女性になっているのも、この時からの積み重ねでしょうね」
【これからの挑戦者へ】40代では遅い。怖がらずに一歩を踏み出してほしい
「競争はいつの時代もありますが、そこから抜け出せるかどうかは、行動を起こせるかどかで決まります。それも見ず知らずの世界ではなく、これまで自分の歩んできた専門の分野で一歩踏み出したほうが成功する確率は高い。
ただし、足を踏み出すのはただでさえ怖いし、歳をとって守るものが増えればなおさらです。それだけに事業を興すなら、20代後半~30代のうちに挑戦してほしい。この年代ならがむしゃらになれますし、もし失敗してもやり直しがきく。これが40代になるともう冒険はできない。若いうちに怖がらずに踏み出す勇気が大切です」