Follow us!

Facebook Twitter

INTERVIEW

「月刊専門料理」1985年4月号 「若き料理人に送る言葉」より

犬はチャンづけ、私は呼び捨て

小野正吉氏(ホテルオークラ東京初代料理長)
 
一覧へ戻る

入って三晩は寝床で泣きあかした

 横浜駅前の洋食屋の息子として育った私は、小さいときから料理が大好きで、学校へ持っていく弁当のおかずも、毎朝自分で作っていたのですから、幼いころからフライパンと縁があったといえましょう。
 そんな私が、コックとしての第一歩を踏み出したのは、高等小学校を卒業してすぐの14歳のときです。父の友人と同期の、米山弘氏が親方をしていた、虎ノ門の東京倶楽部が私の最初の職場でした。この東京倶楽部での修業時代は、今までかれこれ35年にわたるコック生活の中で一番つらい時期でしたが、今にして思えば、なつかしい思い出でいっぱいです。
 仕事はまず石炭運び、ストーブ掃除から始まりました。新入りの私は料理場での下働きだけでなく、親方の家の犬小屋の掃除までさせられたものでした。犬は「ジローちゃん」とチャンづけで呼ばれたのに、私は「正吉」と呼び捨てにされていたことを、今でも憶えています。家にいれば若だんなと呼ばれ、大事にされている身でしたから、入って三晩くらいは、寝床の中で泣きあかしたものでした。
 そんなつらい毎日ではありましたが、この世界に入ったことを後悔したことは、一度もありません。いつも自分の持ち場を早めにすませては、他の仕事を手伝わせてもらって、仕事を覚えることに一生懸命でした。
 職場にもなれ、野菜場からスープ係と進んで、ストーブ前に進んだときの喜びは格別でした。それだけにオーブンの上段に入れるはずのものを下段に入れてしまって、この持場を降ろされたときは、悲しい思いをしました。ちょっとの失敗にも罵声が飛んだ時代でしたが、これは、殴られるより怒鳴られるより身に応えました。

日本のコックは2倍も3倍も努力が必要

 東京倶楽部で3年ほど修業した後、銀座のヤマト本館に移りました。ここで働くうちに、料理は5年や6年でマスターできるものではないと痛感し、家を継ぐ意思を捨て、もっと勉強を続けることにしました。そこで、19歳のとき、当時エス・ワイル氏がチーフをしていた株式会社ホテル・ニューグランドに入社して、新たな気持ちで再出発しました。
 終戦直後は進駐軍の病院勤めなどもしましたが、その後、アラスカ、コックドールなどの料理長を務め、昭和36年に現在のホテルオークラに入社しました。入社後すぐの昭和36年7月から約半年ほど、料理の研究や、ホテルの設備の視察のために、欧米諸国をまわってきました。自分の目と舌で本場の料理にふれたこと、調理場で働いたことはとても参考になりました。
 特にフランスでは、バター、生クリーム、鶏卵などの質の良さに驚かされました。それと同時に痛感したのは、材料の劣る面をカバーしなければならない日本の西洋料理のむずかしさです。苦労してフランス料理の原典で勉強しても、全部をそのまま使えるというわけにはいかないのですから、日本のコックは、フランスのコックに比べ、2倍も3倍も大変なわけです。
 昨年(1965年)4月にチーフに就任しましたが、このごろ痛感するのは、料理というもののむずかしさです。料理の道には、これで完成ということがありません。日本人の舌に合った、しかも、本場のものに負けない料理を作るために、もっともっと、努力しなければならないと思います。