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INTERVIEW

月刊食堂2009年5・6月号「私の創業記」より

人と接することが好きで外食へ

渡邉美樹氏(ワタミ㈱ 創業者)
 
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石井さんと出会わなかったら1000%失敗していた。いま思うとぞっとします

 外食業にとどまらず、介護、農業、環境など幅広い分野に事業展開を進めるワタミグループ。居酒屋チェーンのいちフランチャイズ(FC)オーナーからスタートし、グループを連結売上げ1000億円の組織に育て上げたのが渡邉美樹氏である。

――渡邉氏は1984年に居酒屋チェーン「つぼ八」のFCジーとして創業。つぼ八は第一世代である石井誠二氏が創り上げたチェーンだから、その起業は、まさに第二世代と呼ぶべき位置付けである。そして、オリジナル業態である居食屋「和民」で渡邉氏は、外食チェーン第一世代の成長エンジンであったコールドチェーンとは一線を画す仕組みによって、つぼ八を超える店舗網を築き上げている。
 よく知られているように、渡邉氏は小学校の卒業アルバムに「大人になったら会社の社長になる」と記している。大学に進学したのもそのためで、卒業を迎えようとする頃には、すでにコンピュータか外食産業のいずれかで事業を興そうと考えていたという。

「事業にはヒト、モノ、カネ、それから情報という4つの資源が必要ですよね。でも、これから起業しようという人間にはモノもカネも情報もない。しかし、コンピュータ産業ならヒトの頭の中にノウハウがあるから、その資源だけで戦っていける。コンピュータ時代が来るのは明らかでしたし、天才を集めることができればおもしろい事業になると考えたのです。
 一方で、同じくベンチャービジネスである外食の世界でも産業化がはじまっており、その波に乗ることができれば天下が獲れるな、と。確かにカネは必要ですが、参入障壁は低いですからね。外食のいいところは、規模では到底およばなくても、1対1の戦いに持っていけること。当時もっとも勢いのあったすかいらーくであろうと、個店対個店の勝負になったら絶対に負けない自信があった。
 サラリーマン店長と命がけのオーナー店長だったら、命を賭けているほうが絶対強いに決まってるじゃないですか。そういう部分で外食もおもしろいな、と。もっとも、気持ちの8割ぐらいはコンピュータ産業に傾いていましたが」

NYのライブハウスで体験した感動で外食をやろうと決めた

――その考えが変わったのは、大学の卒業間際に出かけた北半球1周の旅だったという。ひとり旅ゆえ人と話す機会は限られ、バーやパブ、エノテカなど各国の居酒屋が数少ないコミュニケーションの場であった。

「寝袋担いだひとり旅ですごく敏感になったのは人種差別。でも最後に訪れた米国。ニューヨークのライブハウスでは、さまざまな人種、さまざまな年齢の人たちが一緒になって楽しんでいた。その時に思ったのは、人間には嫌な部分もあるけれど、おいしいものやいいサービスがあって、好きな人たちと一緒なら、それを超えて皆いい笑顔になるということ。人間っていいなと感動して、ビールを飲みながら涙が止まらなかった。それで、帰りの飛行機で外食をやろうと決意したんです」

――グループの外食事業が掲げる「ひとりでも多くのお客さまに、あらゆる出会いとふれあいの場と安らぎの空間を提供すること」という経営目的が生まれたのもその時だったと渡邉氏は述懐する。

会社の繁栄の前に個人の幸せを考える会社にしたいと思った

――82年3月に大学を卒業した渡邉氏は、経理などを学ぶためにソフト開発やオフコンを扱うベンチャー企業に入社。半年で退社すると、今度は創業の資金をつくるために某運送会社に入社。セールスドライバーとして1年間勤務し、約300万円の資金を蓄えた。高給が支払われる代わりに過酷な労働条件であることで知られた会社だっただけに、仕事は激務と呼ぶにふさわしかった。

「その頃いつも考えていたのは、会社は何のためにあるのかということ。当時その会社は社員を使い捨てと考えているようなところがあり、それゆえに社員もまた会社を利用することしか考えてなかった。信頼関係のまったくない殺伐とした会社だったのですが、それが反面教師になった。自分が会社をつくったら、会社の繁栄の前に個人の幸せを考えるような会社にしたいと強く考えるようになったのです。
 外食も社員から搾取することで経営者が私腹を肥やすという状況もあった。でも、そんな経営が長続きするはずがありません。産業としてそういう未熟さがあるなら、自分が変えていってやろうとも思いました」

――渡邉氏は最初、ライブハウス居酒屋を創業の第一歩にするつもりだった。すでに横浜・伊勢佐木町の外れに物件も見付けていたという。あくまでオリジナル業態での創業を考えていた渡邉氏が意を翻し、つぼ八のFCジーとなったのはひとえに石井氏との出会いに尽きる。
 渡邉氏はライブハウス居酒屋をはじめるために、高校時代からの親友につぼ八で働いてもらっていた。初の大卒社員ということもあって石井氏もかわいがっていたのだが、渡邉氏と一緒に独立するために退職したいと言い出したからおもしろくない。渡邉というのはいったいどんなヤツなんだ、ということで呼び出されたのだ。

「強烈でしたね。どういう店をやりたいのかと聞かれたので説明すると『そんな店すぐに潰れるよ。それよりうちの直営店を買ってFCジーをやりなさい。立川なら3500万円、高円寺北口なら5000万円で譲るから』と。もちろんそれだけでは心は動きませんが、次の言葉に驚きました。『5000万円の融資先を紹介する』って言うんです。それも金利10%以内でね。
 伊勢佐木町の物件を高いリース代を承知で借りようと考えていたのは担保も何もなかったからです。それぐらい資金に乏しかったから、もし本当ならやらせてほしいとお願いしました。
 もちろん、石井さんの言葉に最初はムッときましたよ。失敗すると言われて『はい、そうですか』では経営者とはいえません。でもそのまま突っ走っていたら1000%失敗でしたね。まず狙う客層と立地が絶対的にズレていたし、運転資金という概念もありませんでしたから。思い返すとぞっとしますよ。神様が失敗しないように石井さんに巡り合わせてくれた。そう思っているんです」

――84年4月、渡邉氏は㈲渡美商事を設立し、つぼ八本部とFC契約を締結。5月に高円寺北口店を譲り受け、外食業に本格参入を果たす。さすがにつぼ八200店(当時)の実積はダテではなく、物流やマニュアルなど学ぶべきものがたくさんあったという。

「最初にFCでスタートできたのは本当によかったと思います。とくに、冷凍技術を軸にしたつぼ八は、ビジネスモデルとして明確だった。マニュアルに則ってきちんとつくれば、きちんとおいしいものができましたから。こういう仕組みがないと、チェーンにはできないのだな、ということを肌で感じましたね。」

――渡邉氏はつぼ八の強さを忠実に再現すると同時に、サービスにおける差別化に力を注いだ。接客サービスを学ぶために働いていた高級クラブのノウハウを活かしたのである。
 アルバイト教育が不足していることでぞんざいなサービスが横行していた居酒屋業界だけに、来店したお客に対して膝をつき、おしぼりを広げて手渡すといったサービスは、たちまちお客の支持を得た。売上げもうなぎ登りで、半年後には従前の月商750万円が同1500万円に倍増した。規模は50坪だから、坪月商30万円の繁盛店だ。
 85年7月には2号店として小田急大和駅前店を神奈川県大和市に出店。こちらは40坪で日商120万円というとんでもない売上げを記録する。渡邉氏の経営手腕は高く評価され、つぼ八FCジーに向けた講演を依頼されるようになった。
 また、後にオーナーが撤退したつぼ八を買い取って多店化するようになったのも、その手腕を本部が買ったからに他ならない。

「つぼ八の多店化は苦労しなかったですね。内装もメニューも全部同じですから、立て直すために必要なのは働く人の教育だけ。理念教育に特化するだけで、売上げは2倍から3倍になりました。投資額は低いから、抜群のリターンが得られる。うちがいまあるのはそのおかげですよ」

石井さんには2度助けられた。足を向けて寝られません

――渡邉氏が選択した居酒屋という商売、つまり「和民」は、居酒屋とファミリーレストランの中間に位置する“居食屋”として開発された。コールドチェーンシステムに基づいたつぼ八のビジネスモデルに抵触しないよう、手づくりの料理を前面に打ち出し、豊かで楽しいもうひとつの家庭の食卓」をめざした。
 学生やサラリーマンといった従来の大衆居酒屋の客層に加え、新たなターゲットとして設定したのはファミリー客。彼らが来店しやすいように、出店立地は住宅と事業所が混在するエリアとし、メニューには手づくりの食事性の高い料理を取り入れた。そして、その第1号店は92年4月、渋谷区笹塚の商店街の外れにオープンした。

「最初は苦労しましたよ。冷凍食品を使わずに手づくりするというのは、調理の技術だけでなく、生鮮品の発注や在庫管理の技術も必要。いわば板前の世界ですよね。われわれは冷凍食品の技術しかなかったのに、いきなりそっちの世界に飛び込んでしまったわけですから。
 それまでF/Lコストは60%に設定してきたのに、ロスは出るし、人件費もかかるしで、F/Lで100%を超えたこともあった。もちろんロス対策は徹底してやりましたし、各商品の出数率も小数点2桁までチェックした。ストップウォッチを片手に作業時間をどれだけ短縮できるかなど少しずついろいろなことを試しましたが、どうにもまとまらない。思い余って石井さんに相談することにしたのです」

――石井氏は87年に伊藤萬(当時)の画策によってつぼ八から放逐されていたが、89年には東京・梅屋敷に「人百八町」をオープンし、ふたたび居酒屋業界で独自の地歩を固めていた。

「石井さんは『労働生産性向上とか難しいことはよくわからないけど、うちの店を全部公開するから見ていいよ』と言ってくれたんです。
 それで、うちの社員を交代で入らせたのですが、実際に現場に立つとまさに目からウロコでしたね。刺身の端材など余った食材で別の商品をつくるといった当り前のことをしているのですが、われわれには当時そういう発想もなかった。それに、仕込みや調理に主婦のパートが活躍していて、余り物の利用の仕方など随所に主婦の知恵を取り入れているんです。
 それまでは職人を使うという考えを捨てきれなかったんですが、八百八町を見て、主婦の力を借りれば価格の壁も乗り越えられることがわかった。和民で主婦の戦力化を考えたのはそれからです。いまでは自社の集中仕込みセンター「ワタミ手づくり厨房」で、約1000人の主婦の方々が働いてくれています」

――石井氏には創業の時、そして和民の立ち上げの時と2度助けられたことになる。
 だが、本当のピンチはその直後にやって来た。いくらつぼ八とは異なるビジネスモデルをつくったと主張しても、世間の日からは同じ居酒屋であることに変わりはない。実際、和民がオープンしたことで笹塚のつぼ八FC店の売上げは大きく落ち込んだ。
 つぼ八本部からは、「和民の看板を下ろすか、つぼ八の看板を下ろすか、どちらかを選べ」という最終通告を突き付けられ、92年7月には「93年9月までにFC契約を解除し、13店舗のつぼ八を順次和民に変更する」という覚書を交わしている。

「当時つぼ八は営業利益が全店で月当たり4000万円出ていました。一方の和民は300万円の赤字。4000万円の利益を捨てて和民を選んだわけですが、これが会社にとっては最大の決断でしたね。それからはえらい目に遭いましたよ。毎月1店舗のペースで和民に切り替えるということは、安定していた利益を毎月切り崩していくわけですから」

 同年10月には看板変更の第1号店として和民中野南口店をオープン。つぼ八から和民への転換は、翌93年10月の和民成増南口店のオープンをもって完了するが、この1年間はお好み焼き事業の売上げ低下が顕著となった時期でもある。ワタミにとっては最大のピンチだったわけだ。
 だが、これを乗り切ったことで和民は業態として研ぎ澄まされていった。家族で居酒屋を利用するという、これまで見られることがなかったシーンを定着させることができたのも、この時期の経験があったからに他ならない。
 もはや後戻りできないという渡邉氏の強烈な危機感があったからこそ、和民はつぼ八とは異なる利用動機、異なる客層を開拓するビジネスモデルを確立したのである。