良心的な値段でおいしく堂々と繁盛する
良心的な値段でおいしい。そして堂々と繁盛してこそ、本当の暖簾の重み
「いせ源」は東京で唯一のあんこう料理専門店であり、天保元年創業。一六〇年の暖簾を守る名声店である。と同時に、茨城・水戸を本場とする浜料理的色彩の濃いあんこう鍋とは一線を画した、江戸、東京の味としての味を確立して今日に至る独自の歴史を誇る。立川源次郎氏はその五代目当主である。
「いせ源」の売りものは銚子沖、鹿島灘で獲れる本物の近海もののあんこう。近年、その水揚げは減少し、かつての大衆魚が高級魚となってしまったと嘆くが、そこは老舗の看板である。八方手を尽くして入手、しかもそれをお値打ちな価格で提供することこそ、暖簾店の使命であり本道とする。ゆえにシーズンの冬場はまさに千客万来。その名声、支持は全国区に及ぶ。堂々たる繁盛ぶりである。
いかにも昔の商家らしい木造三階建ての店構えも、江戸以来の伝統の重みを醸して十分。老舗を気取らず、入れ込み座敷のにぎやかさを残す貴重な食べものやである。
あんこう鍋は庶民の鍋、この心意気を継いできたつもりです
創業は天保元年です。もともとうちの先祖の屋号は「伊勢庄」といいまして、いまの八重洲通りの京橋三丁目、あのあたりは江戸時代には中橋広小路という町名だったんですけど、そこでどじょう屋をやっていたそうです。昔のことは親から聞いた話ですから、どのくらい正確かは分かりませんが、玄関番が五人も六人もいて、大名にも出入りしていたくらいの店だったらしい。ところが、その店が赤痢患者を出してしまって、あっけなく潰れてしまったんですね。で、その時分たまたま、親戚にふぐを食べて毒にあたって死んだのがいた。そこで、初代にあたる立川庄蔵が、あんこうというのは感覚がふぐに似ているな、と目をつけたわけ。しかも、ふぐというのは女にたとえれば美人だけれでも毒がある。その点、あんこうは見てくれは悪いけれども庶民的な大衆の鍋で親しみやすい。当時もあんこうは、茨城の水戸が本場で、いわゆる漁師料理みたいな感じだったんでしょうが、それに着目して江戸にもってきた、というのは大したものだったと思いますよ。そもそも、いちばん最初にあんこうを食べた人は偉いな、と思うんです。僕でさえ、はじめは気味悪くてなかなか食べられませんでしたからね。
あんこうはいまでこそ大変高級な魚になっちゃいましたけれども、昔はほんとうに大衆的な魚だった。で、代々、あんこう鍋は庶民的な鍋、ということで売り込んできて、私もその心意気を継いできたつもりなんですがね。
創業当時の場所は、いまのとちょっとずれているんです。というのは昔、この一画は連雀町一八番地といったんですけど、やっちゃ場だったんです。ですから、ずっと市場の中のいせ源だったんです。それが関東大震災で焼けて、この辺を区画整理したときに場所が少しずれて、ついでに角が出るってんで、道に沿って何坪かずつ狭められちゃったそうです。いまの店は、震災後しばらくはバラックの仮店舗で営業して、区画整理が終わった昭和四年に建てたものです。で、その後の戦争ってことになるわけですけど、空襲のとき、たまたまこの一画だけ焼夷弾がバラバラにならずに不発で、まとまって落っこちちゃった。それで、この辺の商家は焼け残った、ということらしいんですね。僕は軍隊へ行ってたんですけど、復員して秋葉原の駅で降りたら、ずうっと焼け野原の中にポツンと焼け残っていたんで、ほんとうに驚きましたよ。まあ店自体は、昭和一八年一〇月一日で、例の統政経済の国策で廃業してしまいましたけど。
戦後、営業を再開したのは昭和二四年からです。うちの父は堅い人でしたからヤミはやらなかったんですね。それと、店を継ぐことになっていた兄が戦死しましてね。僕は次男なんですが、そういうことで戦後になってから、父から仕事を教えられたわけです。もちろん次男でも、小さい頃から見ていますからある程度は知っていましたけどね。
※「いせ源」のある神田須田町界隈には昔の味と趣を残す老舗店、暖簾店がひとかたまりになって独特の風情を醸しているが、同店はその中でももっとも古い看板である。立川源次郎氏はその五代目、大正一五年生まれの六四才(1989年当時)。店舗はいまでは珍しい、純日本家屋の木造三階建て。延べ約一〇〇坪。一、三階が小座敷で、二階が入れ込みになっており、合わせて約一〇〇席。大衆的な入れ込み座敷を中心とし、また調理場にもスペースを十分に割き、玄関、廊下などの空間を大事にした造りには、昔の食べものやの気風がうかがわれる。
今も昔も鹿島灘産が最高。何とか引っ張って仕入れています
あんこうは、銚子沖の鹿島灘で獲れるのがいちばん。そもそも東京以北の魚なんですね。でも、最近はそういう近海ものがめっきり少なくなってしまって、大体が九州とか朝鮮半島の方から来ているものばかりですよ。もっともうちは、なんとか強引に引っ張って、鹿島灘産のものを使っていますけどね。近海ものと九州あたりから来るものと、どこが違うのか、というと、肝の大きさが違うんです。あんこうというのは、肉が淡白ですから、いちばんおいしいところは肝。近海ものは、その肝が大きい、大きければうまいわけです。ということは、あんこう自体の大きさも、関西ものに比べてずっと大きいわけ。いま、うちに入っているものが大体、一五から二〇キロくらい。大きいのは五〇キロくらいになります。僕は漁に関しては素人だけれど、これはおそらく潮の関係じゃないかと思うんです。鹿島灘は太平洋の黒潮が寒流とぶつかっているでしょ。だから魚に動きがある。それで大きくなるし、運動しているから肝に脂ものっている。それでうまいわけです。
近海もののあんこうが減ったのは、やはり戦後から。貫がキロになってからです。とくにこの十数年はぐんと少なくなっていますね。ところが今年(1989年)は、九月二日に二〇〇キロも届いた。十何年ぶりですよ。まったく予想していなかったので、お客さんにも十分な連絡ができなかったくらいで、驚きました。あんこうは冬の魚ですからね。夏の間は漁にでない。で、九月一日に最初の船が出る。それで、二日が初荷の日になるわけです。僕が若かった自分には、きちんと毎年九月二日にはしりものが入っていたんですけど、ずっと長いこと途絶えてましたからね。ほんとに今年は面食らいましたよ。
仕入れは築地の仲買いに任せてあります。築地でもあんこうを専門に扱う仲買いは少ないんですが、もう長いつき合いで、親戚みたいなものですからね。浜とも全部連絡をとっているし、ちゃんと売れるものを持ってきてくれますよ。ま、特別値段で買っていますしね。やはり優先的に回してもらえるわけです。もちろん、悪いものが入っていれば突っ返しちゃう。そういう厳しさはありますよ。ただね、相手は自然のものでしょ。不漁でどうしてもいいものが入らないってこともありますよ。それはちゃんと引き取るとかね。そういうことも大事なんです。そして、その後はこちらの考え方次第。使えなければ捨てちゃいますよ。仕方がない。それを、悪いのを平気で使っていれば「まずい」という言葉が残るだけでしょう。
かつて大衆魚だったあんこうも、最近はほんとうに高くなっちゃいました。十数年前に比べて、倍以上ですよ。数が減れば高くなるのは、需要と供給の関係なんでしょうけどね。それに加えて最近は、フランス料理とか高級な懐石料理屋さん、そういうところであんこうの肝を使うようになっているんですね。そうすると肝を買うためにあんこうを買う、と。要するに、肝であんこうの値段が決まっちゃうわけです。
※あんこうを出せるのは、九月から翌年四月まで。五月から八月までの四ヶ月間は、夏料理としてうなぎ、どじょうなどの川魚料理を出しているが、「商いとしては遊んでいるようなもの。昔は夏の一ヵ月くらいは休んじゃったこともあるけど、いまは人を大勢使っているし、暇であっても休むわけにはいかない」と立川氏。その代わり、シーズンの真っ最中の冬場ともなれば、文字通りの先客万来。ピークの夜六時から七時頃にかけては、連日、店の前に長い行列ができる。その繁盛ぶりは「たぶん、神田でいちばん税金を払っているはず」との立川氏の言葉からもうかがわれよう。
味の決め手は秘伝の割り下。これだけは板前にもとらせません
あんこうの料理というのは、昔からの吊るし切りとかいろいろありますけど、僕は技術的にはそんなにむずかしいものとは思っていません。ただひとつ、むずかしいのがたれ、割り下のつくり方。あんこう鍋は、このたれが決め手なんですから。水戸あたりでは味噌仕立てですが、うちは昔から醤油の割り下です。というのは、あんこうは深海魚だから泥臭いんですね。それで、その泥臭さを消すために、味噌でいっぺんに煮ちゃって、唐辛子をかけたりしてごまかそうとする。でも、やはりそれだけでは泥臭さというのは消えない。だから、あんこうはまずい、という人が多いんだと思います。だけどもうちでは、その泥臭さをいったんボイルすることによって取ってしまう。そのうえで、代々秘伝の割り下で炊く。それで味が決まるんです。と同時に、一人前に対して焼き豆腐はどれくらい、というふうに、具の量も決まっている。それ以上入れると、たれが狂っちゃうんですね。微妙な味なんですよ。そして、煮つまり加減のいせ源のあんこうがうまい、それから残った汁でのおじやが最高にうまいと、こういうことになっているわけ。ですからこの割り下だけは板前ににはとらせません。まあ、板前だって知っているでしょうけど、それくらいの気持ちがないと暖簾は守れませんよ。そしてね、うち以外にあんこう専門店が東京にない、というのは、結局はまずかったからなんです。何軒かできても、みんな潰れちゃいました。たれだけは真似ができない。
僕自身、父の跡を継いでつくづく感じたのは、暖簾のある店というのは、守ることが大変なんだ、ということなんです。儲けりゃいいんだ、なんて商売は絶対にできない。でたらめをしちゃいけない。一生懸命に名前を汚さないで守っていこうと、そういう気持ちが、暖簾の継承者のいちばん大事なポイントなんじゃないでしょうか。そういう意味では、戦後ヤミをいっさいやらないで、いろいろいわれたこともありましたけども、それがよかったんだと思います。それとね、商売なんですから、やっぱり流行ってこその暖簾なんです。堅い、自立した経営ができてこそ、暖簾を維持することだと。僕の信念なんです。税金をごまかしたり、高い値段を取るようじゃだめなんです。良心的な値段でおいしい、いい店だ、と皆さんに喜ばれて、しかも税金もうんと払える。堂々と繁盛することが、本当の暖簾の厚み、重みなんじゃないかと思うんです。あんこうの値は上がっているけども、少しでもお客に還元するように努力する。いま、鍋を二五〇〇円で出してますけど、三〇〇〇円でも合わないといえば合いません。でも、それでも利益はちゃんと出ているんだから、値上げはしない。息子にもそういってるんです。
ま、おかげさまで冬場は先客万来の賑わいになっています。ただ、僕は予約は半分以下に決めてるんです。フリのお客を大事にしたいわけです。いつ行っても予約でいっぱい、なんていうんじゃいやになっちゃいますよ。そして、帳場でお勘定を払うときに「一時間以上も待ったけど、やっぱり待った甲斐があったよ。おいしかった、また来るからね」といっていただける嬉しさね。それは大変な言葉ですよ。ほんとに感謝していますし、商売冥利に尽きますよ。