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INTERVIEW

柴田書店MOOK - CAKEing vol.3 「私の修業時代―海外編」より

創造性が開花する時…‥

ピエール・エルメ氏(当時・ラデュレ(パリ) 副社長)
 
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「お菓子を通じて何かを語りかけたい」、これはパテイシエにとっての理想のひとつだ。しかしピエール・エルメ氏のお菓子は違う。お菓子そのものが語りかけてくるのである。お菓子との対話はたとえば次のように行なわれる。
 デザートの皿が運ばれてくる。温かいピスタチオ風味のワッフルに、冷たいチョコレートのクリーム、そしてサフランのジュレで寄せたレーズンが添えられたもの。焼き色の美しいワッフルはパリッとした表面とは対象的に、切り口からのぞいた内部はしっとりしている。ほのかに立つ湯気、そして香ばしいにおいがこのデザートの最初の言葉である。
「ここから食べてみるとおいしいよ……」
 まるでそんな言葉を発しているかのように、ざっくりと斜めに切ったワッフルの切り口が食欲をそそる。次にチョコレートのクリームを味わう。ひんやりとした滑らかさを感じた後で、チョコレートのコクのある香りが広がる。レーズンのジュレを味わうと、甘酸っぱさとともにサフランの独特な香りがフワッと□の中に充満し、チョコレートの風味と混ざり合い、個性的な味覚のハーモニーが楽しめる。
 エルメ氏のお菓子には快い驚きも隠されている。菓子づくりには奇抜だと思われる食材も時には大胆に使用するからだ。サフラン、ジャワ産のコショウをはじめとするめずらしいスパイス類、アボカドやバラなど。聞いただけではその突飛さに戸惑うが、味わってみると「なるほど」と舌の上で納得してしまうから不思議である。

「おいしいものには何でも興味がある。私は生まれついてのグルマン(食いしん坊)。食べたいと思うものをそのまま皿の上で自由に表現するだけ」

 と温かみのある笑顔で語る。実際、どの菓子をとっても、味と食感が巧みに調和している。そしてなによりも個性がある。クイニイ・アマンのような素朴なお菓子には、焼きたての最高の食感にまろやかでコクのあるバターの風味が生きている。また、デザートに添えられた紅茶の葉のラム酒漬けの瓶は、料理に香味オイルをかけるように、デザートに好きなだけふりかけるためのもの。味わいを深めるためのそんな細かな気配りも感じられる。

「菓子はまず、見た目においしそうだという表情をたたえ、ひと□食べてみたところで、ああやっぱりおいしいと実感できるものが本物だと思う。見た目でおいしさが感じられる菓子とは、完璧に組み立てられたものというより、たとえば端からちょっとクリームが流れ出ていたりするようなもの。どこか欠点がある方がおいしそうな印象を受ける。欠点がある人の方が人間くささを感じるのと同じかもしれない」

 お菓子への思い入れの深さを感じさせるひと言である。エルメ氏は研ぎ澄まされた嗅覚と味覚の持ち主でもある。一度覚えた味と香りはエルメ氏の記憶に刻まれる。さまざまな土地で発見した新しい香りや、いろいろな人との出会いの場で思い出に残った料理の味、においを正確に覚えているという。新しいデザートやお菓子をつくる時には、それら一つひとつを巧みにたぐり寄せて、エルメ氏の味ができ上がる。また、エルメ氏はワインの愛好家でもある。「ラデュレ」のワインリストはすべてエルメ氏自身の味覚で選び抜かれたものばかり。ワインはブドウの産地、品種、土壌そして収穫の年の気候条件すべてによって微妙に差が出るもの。それぞれの風味の特徴を生かして、ラデュレの料理とデザート一品ごとにぴったり合う銘柄のワインをコーデイネイトする楽しみもあるという。
 

私の父は自分の仕事に誇りを持った、熱心な職人気質の人でした

 ピエール・エルメ氏はアルザス地方のコルマールにある、四世代にわたって看板を掲げてきたパテイスリー・プランジュリー(お菓子とパンの店)に生まれた。パンのにおいやお菓子の甘い香りに包まれてすごした幼少時代。エルメ氏の香りに対する優れた感性は、幼い頃の自分をとり囲むさまざまなにおい、それらが少しずつ記憶の中に刻まれ、時がたつにつれ成熟したものであろう。

「私の父は自分の仕事に誇りを持った、熱心な職人気質の人だった。そんな父の影響でパティシエになりたいという希望が自分の中で少しずつ芽生えていったように思う。パティシエになれなければ庭師か建築家になりたいと思ったこともある。何かをつくりだすこと、創造性が必要となる仕事に興味があったのかもしれない」

 真剣にパティシエをめざそうと決心したのは、わずか10歳の頃だった。父親は息子の決意にことのほか喜び、菓子づくりの技、そしてお菓子の世界のすばらしさを熱心に教え込んだ。
 そして14歳になった時、菓子づくりを学ぶために故郷を離れ、パリのガストン・ルノートル氏のもとにアプランテイ(見習職人)として弟子入りをした。ガストン・ルノートル氏は、フランス菓子の伝統に新しい方向性を与え、現代フランス菓子の基礎を築いた人物である。

「菓子の技術については、父からたくさんのことを教わったつもりでいたが、ルノートルの菓子づくりを学びはじめてみたら、自分は本当は何も知らないのじゃないか、とショックを受けた」

 それほどまでに、ルノートル氏が教えることの一つひとつが、エルメ氏にとって目新しい発見だったという。

「ルノートル氏の偉大さ、そして人間性には心からひかれた。大切なことを山ほど教わったが、強いて言うならばまず味、味を尊重すること。そして品質を見分ける力。それは菓子の原材料の質ということでもあるし、菓子そのものの質にも結びつく。ルノートルがフランス菓子の流れを変えたということを目の当たりにして、それが自分の中で将来の展望への原動力になった」

 ルノートルでの修業を終えたエルメは、自分のスタイルを築いて自分らしいお菓子をつくりたいという希望にあふれていた。

「しかし、師ルノートルの影響力は大きすぎた。菓子以外の世界でもそうだが、自分のスタイルを生み出して自己表現しようと思えば時には習慣とか伝統が個性の上にのしかかって、その重みに耐え切れずにそのまま埋もれてしまう人も多いと思う。だけど、そこから脱するには、いったんすべてを取り払ってしまわなければいけない。そうしなければルノートルの影から抜け出せないと思った」

 ルノートルを離れた後、4年の間にベルギーの名店「ヴィタメール」、ブリュッセルの一流レストラン「カールトン」、ルクセンブルクの「ホテル・インター・コンチネンタル」などを点々と渡って、やっとルノートル色を取り除くことができたという。
 すばらしい師との出会いと、その師を超えたいという強い熱望と模索こそが、エルメ氏を現在のエルメたらしめたのかもしれない。

伝統とは不動のようでいて実は絶えず変化する、動きのあるものだと思う

 86年、エルメ氏は26歳の若さでパリのお菓子と高級食料品店の老舗でもある「フォション」のシェフ・パテイシエに抜櫂される。そして彼の創造性が開花しはじめた。それからというもの、エルメ氏が今日まで歩んできた道、そして築き上げてきたものは多くのパティシエたちの間で一種神話のように語られてきた。
 エルメ氏はフォションのお菓子を変えた。自由な感性と特異なまでの創造性を駆使し、他に類のないお菓子が次々と誕生していった。80年代のフランス菓子の傾向といえば、ムースやカラフルなビスキュイを使ったものが多く、見た目の美しさに気をとられ、味や食感に乏しいものが目立っていた。そんな誤りにいちはやく気づき、味のあるお菓子を生み出していった。
「ラ・スリーズ・シュール・ガトー」(菓子の上のひと粒のサクランボという意味)というお菓子はあまりにも有名である。高さ18cm ほどあるチョコレートで覆われた三角柱の上にひと粒の輝くサクランボがのったこのお菓子は、エルメ氏の独創性を印象づけた。さまざまな創造菓子を通じ、エルメ氏は間違った方向に偏りがちな菓子界に反省を促したかったのかもしれない。
 フォションではその他に、製造システムを大幅に改善するなど、同店の世界的な発展に大きく貢献した。またエルメ氏のもとで働いていたパティシエ一人ひとりの菓子づくりに大きな影響を与えた。クリストフ・フェルデール氏、フレデリック・ボワ氏、ジャン・ミッシェル・ペルションな氏ど、優秀なパティシエたちのよき指導者でもあった。
 そして11年にわたるフォションでの創作活動に終止符を打ち、97年に「ラデュレ」の副社長として迎えられた。
 ラデュレはパリでもっとも古いティーサロンのうちのひとつ。1862年の創立である。パリの街が当時のセーヌ県知事オスマン氏の計画によって華やかに塗り替えられた頃に誕生し、フランスの文豪や高貴なパリジェンヌたちの社交の場として親しまれてきた。
 創立から1世紀以上の時を経た今日、ラデュレは築き上げてきた伝統にエルメ氏の創造性という新しい息吹を加えた。そして古い絵画を修復するかのように、彩り鮮やかに蘇りつつある。
 伝統に創造をもたらすこととは、伝統を打ち壊すように聞こえるかもしれないがそうではない。エルメ氏のめざす菓子づくりは、それらふたつが対となった上に成り立つものなのである。

「そもそも、伝統というものは、その発端に斬新な創造があってこそ築かれるのだと思う。たとえば、20年前、クレーム・ブリュレといったらお菓子の中ではもっとも斬新な発明だった。それがいまでは、フランスの伝統菓子として数えられている。また、モワルーショコラと呼ばれるチ∃コレートのデザート(スプーンを入れると中身がとろっと流れ出す温かいタルト)をはじめて見たのは「ミッシェル・ブラ」でだった。その時は、これがミッシェル・ブラの創造菓子かと感心したものだが、いまではどんなレストランでも供される、一種のデザートの定番になってきた。つまり、伝統とは不動のようでいて実は絶えず変化する、動きのあるものだと思う」

 ラデュレはエルメ氏を迎えてわずか1年の間に、数々の変革を遂げてきたが、もっとも注目すべきは97年9月の「ラデュレ・シャンゼリゼ店」の誕生である。
 シャンゼリゼ大通りはパリを象徴する観光の名所だが、近年、大通りの両側は外国資本のファストフード店などに占領され、パリらしさがもっとも薄れてきた場所でもある。しかしラデュレの出現によって、シャンゼリゼに古きよきパリの面影が舞いもどってきた。
 豪華で洗練された店内の装飾は、19世紀のパリを偲ぶことができる。ティーサロンのヴィヴィッドな雰囲気に、時間制限のない気軽さとレストランの豊富なメニュー構成という、多面的な利点を兼ね備えた味覚の城。その舞台裏では、エルメ氏がすべての指揮をとる。料理のメニュー構成、デザートやテイクアウト用のお菓子、そしてチョコレートのレシピづくりやワイン選びの他、パッケージや食器選びもエルメ氏の着想による。おいしく味わうためには皿の外にも眼を向けなければいけない。そんなエルメ氏のこだわりはスプーン一本にまでもいきわたる。
 ピエール・エルメ氏の創造性はつきることなくさらに発展し続ける。36歳の若さで伝統ある老舗に活力を与えたり、さまざまな著書を通じてフランス菓子の誇りを世界に知らしめた。※現在は、自身の名を掲げた「ピエール・エルメ・パリ」を展開している。
 いずれは伝統を支える礎のひとりとなり、フランス菓子の歴史にその名が刻まれるであろう。