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INTERVIEW

月刊食堂1990年2月号「たべものやの証人たち」より

隅田川の景色は変われど団子は変えない

外山新吉氏(だんご 言問団子 主人)
 
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隅田川の景色はずいぶん変わったが、この川辺で生まれたうちの団子だけは変えたくないね。

 隅田川縁、向島界隈が大名の下屋敷町だった江戸時代、外山家は屋式出入りの庭師を業としていた。が、維新の動乱による時代の変革に早々と見切りをつけた親方は、潔く庭師の屋号を捨て、団子を商う茶店に転身した。それが「言問団子(ことといだんご)」のそもそものはじまりである。慶応年間のことだった。ただし、団子といっても串に刺さなかったところに、初代の独創性があった。黒、白、黄と三色を和菓子の趣で皿にのせたこの団子は、品のよい味と見栄えで大いにもてはやされたという。やがて明治。風流人でもあった初代は都鳥を歌った在原業平の歌、
 名にしおはばいざ言問はん都鳥から「言問」の文句を引いて屋号とした。以来、隅田川の桜並木と言問団子は、向島名物として広く親しまれるに至った。外山氏は、その五代目になる。戦後の再開店から当主に立ち、茶店の昔の味ひと筋に励んできた。地味だが醍醐味のある商いといえよう。

いったいどうして庭師が団子を売り始めたのだろう

 江戸時代には代々、隅田川縁の庭師だったんです。庭石とか植木とかを扱う職ですね。このへんは大名の下屋敷町でしたから、そういうお屋敷に出入りしていた。それが幕末から維新の動乱で、仕事先のお屋敷がなくなっちゃったんですね。それで茶店を出して、お団子を売り始めた、というのが最初の経緯だそうです。植木屋の佐吉、縮めて植佐というのが初代なんですけど、ですから当初は茶店になっても「植佐の店」だった。ところが明治元年になって、初代の親しかった俳人で花城翁という人が植佐の店じゃしょうがない、と。在原業平の「名にしおはばいざ言問はん都鳥――」という歌から「言問」を取って「言問団子」としたらどうか、と助言してくれて、それ以来、この暖簾になったということです。それから「都鳥」もいただいてマークというか商標に。これは二代目が大正七年に商標登録を取っています。
 この隅田川のあたりには、江戸から明治にかけてずいぶん茶店があったようです。ただその当時も、茶店で出すお団子というのは必ず串に刺してあった。でもうちの初代は、団子というのは中国から渡ってきたもので、串に刺さないのが本当だ、お月見団子にしても串に刺してないじゃないか、ということで、わざわざ都鳥の団子皿まで作って出した。それが当時としては非常に珍しかったみたいですね。ちなみに、うちの初代が植木職でしょう。日暮里の羽二重団子さんも初代が植木職なんですよ。たしかに植木職というのは手先は器用ですけど、どうしてお団子という発想が出てきたのか、私たちからじゃ分かりませんねえ。ただ、うちの場合は大名の下屋敷に出入りしていた関係上、お茶会であるとか、そういうものに庭の手入れということで常に接触していたわけで、そのへんに多少のヒントがあったのかもしれないとは思っているんです。
 維新前後の頃は、庭師ですから敷地は広かったけれども、いかにも小さな茶店という感じでやってたのが、明治に変わって世の中が一応落ち着いてから、二階建ての本格建築の店舗になっています。というのも、大名が屋敷から出て行ったとき、うちで庭石を引き取って手元に置いておいた。それに莫大な値がついたらしいんですね。そのお金で店を建てて、それと、江戸時代に隅田川でやっていた灯籠流しを復活させました。明治十一年のことです。都鳥の形をした灯籠を作って、七月一日から一ヵ月間、毎夜ぶっ通しでやりまして、これでいっぺんに東京中に「言問団子」が知れ渡ったそうです。その後七年間、灯籠流しを続けて、庭石の売れたお金を全部使い果たして中止になったんですけど、結果的にはかなりのPR活動になったと思いますね。まして夏というのは、団子屋の客足が落ちるときですからね。うちと道を挟んで、長命寺さんに桜餅がありますでしょ。うちなんかよりずっと古いし、有名でしたから、それに追いつこうという気持ちがあったんでしょう。いずれにしても、初代は先が読めるというか、なかなかのアイデアマンでしたね。

都鳥の絵皿に三色の団子。味も昔とほとんど変わりません

 うちのお団子は、あずき餡と白餡、それと「青梅」といって黄色い味噌餡のものと、創業最初からこの三色です。「青梅」というのは、かつて水戸様の下屋敷がすぐそこにありまして、水戸から非常にいい梅を持ってきていたんですね。その梅の青い実をかたちどったものなんです。黄色はくちなしで取り、味噌餡で梅の酸い味を出しているわけです。でも近頃はみなさん、味噌餡というのはあまり親しまれていないので、昔よりは味噌の味は抑えていますけどね。あずき餡、白餡については、甘さとかの配合はまったく変えていません。ただ、お団子自体のかたさは、昔よりはやわらかめに調整しています。なぜかといいますと、昔はこういうものはここ、茶店へ来て食べる方がほとんどだったんですね。ところがいまは、お土産の方の比重がずっと大きくなっています。そうすると、どうしても食べるまで時間が経ってしまいましよね。まあ生ものですから、その日のうちに召し上がっていただきたいのですが、それでも作りたてではないのだから、ということで、やわらかめにしているんです。それに、昔のようにかたいお団子では、いまのひとにはちょっと合わないこともあります。
 やわらかめにするというのは、要するに搗く時間を長くするということです。うちは上新粉ではなく生新粉ですから、まずこれを水でなく熱湯で練ります。それを杵で搗いて、冷水で熱を抜いて、また搗いて、さらにちょっと置いてからもう一度、と三度搗くわけです。昔は二回でもよかったんですが。それから昔は、新粉に挽くのも全部、家でやていましたね。私が子供の頃には、石臼でもモーターで回すやつ、半分機械化されてはいましたけど。自家製の新粉を作るというのには、お米の質の微妙な違いを調整する、という意味もあるんです。粉に挽くときの網の目の粗さとか、お店によってそれぞれの技術があったんです。まあ、お米もいまはいいものが入るようになっていますけど、たとえば同じ新潟の米でも質が違うなんてこともありますから。明治時代には自前の田んぼを持っていたようですが、いまはそんなことはできませんしねえ。ですからいろいろと仕入れてみて、自分で見て、噛んで確かめるんです。(中略)

※「言問団子」の暖簾は、隅田川沿いの景色の変貌の歩みと重なっている。かつては川辺までが地所で、専用の桟橋まで備えて風雅な舟遊びを楽しめたという。関東大震災では蔵まで店もろとも延焼したが、そのさいには暖簾だけはさすがにはずして、この桟橋から逃げのびたそうだ。その後、地続きの隅田公園が整備された時に鉄筋店舗にすることが強制され、茶店なのにと渋々従ったところ、戦災では焼けずにすんだ、と外山氏。

 私が仕事を覚えたのは戦後からです。戦時中、徴兵が延期になるというんで医者の学校へ行ったんですけど、戦後になってしばらくしたら、どうやら再開できそうだ、ということになって、学校をやめて仕事に入りました。古くからの職人がいましたから、仕事はそのひとに教わって。うちの再開は昭和二四年とよそよりちょっと遅いんですが、それというのもサッカリンはいっさい使いませんでしたから。でもその当時はみなさんサッカリンに慣れちゃって、本当の砂糖の味というのを忘れちゃっていましてね。何だ、全然甘くないね、なんていわれたものです。うちは上白糖とざらめしか使わないことになっているんです。ですから、戦後始めた頃は、一日にいくらも作れませんでしたね。戦後は一人前三個、三色が一個ずつになていますけど、戦前は三色二個ずつで一人前六個だったんです。結局、材料が乏しかったために一人前の量を減らして、それがそのままずっと続いちゃってるわけなんですが、いまのひとには六個じゃ多すぎる。三個でちょうどいいんじゃないでしょうかね。大正の頃、向島にも花柳界ができて、一度にまとめての注文なんかもけっこうあったらしいんですけど、もうそういう時代でないですしね。昔の値段ですか。私の記憶ではたしか、昭和十二年で一人前(六個)が二〇銭でした。いまは三個で四二〇円です。戦災で焼けなかったので、戦前の大福帳もあったんですけどねえ。戦後再開してもまだまだモノ不足の時代に焚きつけに使っちゃったんです。あれが残っていればいろいろ分かるんですが、惜しいことをしたと思います。
 この近辺の茶店も、大正時代あたりでほとんどなくなっちゃったと聞いています。そいうなかでうちが生き残ったというのには、串に刺したお団子はやらなかった、ということもあったんじゃないかと思うんです。屋台といいますか、そいう発想ではうちはやらなかった。それがよかったんだと思います。団子皿は昔から、向こう岸の今戸で焼いていました。今戸にはこういう焼き物の店がたくさんあったんです。でも戦災で焼けてからは寂しくなりましたね。うちの皿は都鳥の絵付けが面倒でしょ。ですから頼むときには一窯分、ニ、三〇〇〇枚を一度にお願いしています。たった三五席なんですけどね。
 住まいは代々店と一緒です。食べもの商売というのはたとえ夜でも何があるか分からない。だから当主は必ずここに住まなくちゃいけない、ということになっているんです。隅田川の景色はずいぶんと変わってしまいましたけどねえ、この川辺で商ってきたうちのお団子だけは変えたくありませんね。