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INTERVIEW

月刊専門料理1991年1月号より

味のコントラストを皿の上で表現

ジャンフランコ・ヴィッサーニ氏(ヴィッサーニ(イタリア) シェフ)
 
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 ジャンフランコ・ヴィッサーニ(Gianfranco Vissani)は、長身でスポーツ選手のようながっしりした体格の料理人である。このヴィッサーニが、フランスの雑誌「ゴー・ミヨ」で、イタリア最高のレストランという評価を受けている記事を読み、大いに興味を持ったことは言うまでもない。イタリアのガイドブック「エスプレッソ」が同じく最高評価をしているのは当然として(このガイドブックは、常にゴー・ミョとほとんど同じ評価であることは有名な事実なので)、念のため参考にしたイタリア版ミシュランに、星はおろか店の存在さえ無視されていることを発見し、さらに別の興味が涌いてきた。これほどまでに評価が分かれる料理人とは、どんな人なのだろうか。

イタリアという土地に即した変化が必要だ

 ホテル学校を一九六二年に終えたヴィッサーニは、七四年にウンブリア州(Umbria)にあるここバスキ(Baschi)に戻ってくるまで、いろんな所を旅してホテルの料理などを合めていわゆるクラシックな料理を学んで来た。
 そしていざここで料理を始めようとしたとき、「条件の悪さに愕然とした」という。人造湖のほとりにポツンと建つレストラン。ドライブの疲れを休めるために立ち寄るか、近くの人がわいわいと食事をしにやって来るレストランである。イタリア全土を相手に最高級のイタリア料理を食べさせたいと意欲に燃えていたヴィッサーニにとって、出発の条件としては、かんばしいものではなかった。しかもウンブリア地方の人たちは、食べ物に関してとても保守的である。昔からの伝統的なものに固執するところがある。
 でも、とにかく出発しなければならない。ちょうどフランスではいわゆるヌーヴェル・キュイジーヌが話題を集めているときでもあった。料理の創造というテーマは、ヴィッサーニにとって最も興味のあるテーマだった。

「誰かが動かなければ、と言う気運はあったと思います。そして七九年にマルケージが動いた。彼の出現はイタリアの料理界にとっても画期的なことだったと思う。何人かのレストラン経営者が彼に続こうとしました。同調したわけですね、彼らは。
 僕にとっては、マルケージとは違う方向で料理の改革をしようと思っていたんです。フランス料理の方法論であるバターでのモンテとか、その他さまざまなテクニックで、イタリア料理を変えると言う方向ではなく、もっとイタリアという土地に即した変化が必要だと思ったのです。
 マルケージはミラノで大きな改革に挑戦したわけですが、私は、人造湖を背景にしたところで始めなければならなかったのです」

 しかし、都会だからレストラン経営が容易であるとはいえない。いや、むしろ郊外や田合のほうが成功している例は多いとさえいえるのではないか。

「いいレストラン、偉大なレストランというのは、イタリアでは町の中ではなく郊外にある場合が多いですね。田合の、家族あげての経営の中から生まれてくるものだと思う。ちなみにローマやミラノで、どれくらいマルケージ級のレストランがあるかと言えば、せいぜい一、二軒ではないでしょうか。結局大きな町には一つくらいしかいいレストランは出来にくいということでしょう。それはどうしてかと言うと、都会というところは経営的に難しいことがたくさんあるからで、町の外にあって、家族同志でやって行くという方法で、生き延びてきた店が多いというのがイタリアの現状でしょう。
 残念ながらイタリアとフランスでは、レストランの置かれている状況が違います。フランスなら、いいレストランなら遠くてもなんとしてでも食べに行く客がいます。しかしイタリアでは、そんな高い金を払ってまでわざわざ遠くまで行くのかということになってしまいます」

口に入れる前に感じること

 父親が経営するリストランテ「イル・パドリーノ」(Il Padrino。名付け親、いわゆるゴッドファーザーの意)のなかに、自分が納得できるイタリア料理を提供できるリストランテ「ヴィッサーニ」を七八年に作って、いよいよ新しい料理の創造に向かって出発した。

「自分としては今作っている料理は一〇〇年ぐらい進んでいると思っているけれど、ここウンブリア地方というのは、先ほど言ったように、とても封建的で、昔からの伝統的なものに固執するところがある。昔の料理を好んで選ぶんです。たとえばここウンブリア地方ではローストした肉、しかもカリカリに肉汁がなくなるまでローストしたような肉が好きなんです。そういう肉、いろんな部位やいろんな種類の肉を集めてひと皿に盛るというような料理を好んで食べます。表面はカリカリに焼いて、しかも中をロゼに仕上げるというような料理を、理解することも評価することもできないという、貧しい状況なんです。フランスならそういう焼き加減はもちろんのこと、様々なソースも理解できるというように、イタリアと比べると客層もかなりよい状態にあるといっていいでしょう。
 僕自身については、素材について誰にも負けないくらいよく知っていると思います。素材を見て、感じることができる、細胞の一つ一つが口に入れる前に分かる、感じ取ることが出来るのです。もちろん口の中にいれて味わうことが出来るのは言うまでもありません。そういう感覚をもった上で、頭の中でどういう料理に仕立てるかを想像する。これが、料理人のすることなのです」

日本料理の色の組合せは素晴しい

 なかなかイタリアの客には分かってもらえないと嘆くヴィッサーニ。当然、多様な国の人々にも必ず自分の料理は通用するはずだという自負を持っている。彼の眼からみるとドイツという、料理としてはあまり評価されないところで活躍しているシェフ達や、スイスのジラルデのような料理人に興味を示す。

「確かにジラルデは素晴らしい。でも、ボキユーズ、ロビュションと“世紀の料理人”とゴー・ミヨが持ち上げているのには賛成しかねるけどね(笑い)。
 僕が思うには、今の時代の偉大な料理といわれているものは、味のコントラストをどのように皿の上で表現するかということを考えた料理だと思う」

 そのためにいましなければならないことは何か。

「イタリアにもクリームで和えたパスタや、いろいろなこってりとした味の料理があって、みんなそういう料理を食べ続けてきました。たとえばリガトーニという料理は、初めはグアンチャーレ(豚肉のほほの所を塩蔵して干したもの)とタカノツメを入れて作ったものだったんだけど、それが今ではクリームを入れ、黒トリュフを入れ、パルミジャーノを入れてやるようになった。それがリッチという理由で。しかしどんどん重くなって行った。
 つまり今必要なのはイタリアの地方料理を見直した料理と、フランス料理のクラシックな料理を見直した料理、そして日本料理の持つ色の組合せ、そういったものから出た料理が一番素晴らしい料理だと思う。ちなみにもし僕が日本に一年間行くことが出来たら、日本料理を変えることが出来ると思うな。もちろん日本料理を作ってみる。日本をほとんど知らない僕だからこそ出来ることがあるかも知れない。イタリアでたくさんの日本人が学んでいるのに、何で彼らが日本に帰ってから日本料理が変化していかないのかが僕には疑間なんだ」

 なぜ、イタリア料理の地方料理の見直しとフランス料理の伝統の見直しが必要なのか。

「例えばルージエの料理で魚をフィレのように切るのは、イタリア料理にはなかった。あれはフランス料理から学んだ技法だ。鳩にしても、これまでならまるごと出したかも知れない。それを骨をはずして出すというやり方で調理した。そのようないくつかのテクニックはフランス料理から学んでいる。
 またイタリアの中でも南の、地中海に面している土地では、とてもいい料理がたくさんある。フランスには偉大なシェフ達がたくさんいるが、そうした人たちがイタリアの南の地方の料理を見たなら、料理の味のコントラストや、素材の良さなどを見て、きっとそれと同じようなものを作るだろう。それだけ素晴しいものがたくさんある。
 また、フランスで、イタリアのようにパスタをこれだけの水準で食べさせるところはないんじゃないかと思う。アラブでも、スペインでもいろんな国の人たちがパスタを好んで食べてくれる。
 つまりヴィッサーニの料理というのは何かといえば、フランス料理のテクニックを取り入れ、自分達の持っている素材の素晴しさ、魚にしろ、野菜にしろ、それと日本料理の色の組合せをコピーして自分の料理を作るのがいいと思っているというわけです。
 僕は今四〇歳だけれどもこの仕事の中で生まれて、自分の全てをこの仕事に注いできた。年に二日位の休みしかなくて、もしかすると家族を犠牲にしてきたかも知れない。でも、これでいいと思っている。後は自分の気力がいつまでも続くのを祈るだけ。それがなくなったときが終わりだ。僕はモーツァルトでありたいと思っているから」