もっともっと京都人になりたい
料理人への原体験は母の教えでした
私が料理人になったプロセスをふり返って考えますと、なにかこう、まっしぐらで、料理のことだけを考え、まるで夢を見続けてきたような気がいたします。
私の幼年時代、父は韓国の釜出で会社を二、三持っていまして、母が日本料理店を経営しておりました。言葉が不自由な従業員に代って、私が小学生時代、憶えたての韓国語で出入りの魚屋に仕入れの交渉をしていたということですから、あながち、現在の仕事と無縁とはいえませんね。
あちらへ行っていた日本人がほとんどそうだったように、私たちの家族も、敗戦のため着のみ着のままの状態で日本に引き揚げて来ました。そして、九州の福岡で高校の途中までをすごし、父が亡くなったこともあって京都に移り住んだのです。
とにかく、引き場げ当時は非常に貧しい暮しでした。お米を買うお金がないこともしょっちゅうで、うどんももちろん買えませんから、そのゆで汁を一升瓶に入れて買ってくるのです。それに塩を入れて飲む、それが御飯替りだったこともありました。それでも貧しいからみじめだとか、ひもじいからつらいと思ったことはありませんでしたね。その気持が修業時代にとても力になったように思えます。
私自身、思えば小さい時から料理が好きだったのかもしれません。例えば、学校から飯金盒炊さんに行った時でも、おこげのご飯に山の清水をわかした湯を入れて、塩を少し加えて友逹に食べさせたら、うまいうまいと喜ばれたこともありました。これは後になってみると、そば湯とかお茶料理の湯桶のおいしさなんですね。また、母は神戸の生まれであったためか、中国料理、西洋料理も得意で、煮炊きものも上手でした。大根一本買うのでも、同じ値段ならもう一度ぐるっと回って新鮮なもののほうを買うというような人で、私はわずかなものでも納得する物を買い、それを一番おいしく食べるようにする知恵と行動を母から教えられたように思います。これが料理の原体験で、そういう意味では、現在の私につながっているのかもしれません。
マイナスをプラスに転化する明るさを持って……
京都に移って、私は定時制高校に通いながら、昼間は親威の料理店で働くことになりました。学校ではクラブ活動のリーダーをいくつもやり、弁論、柔道、ブラスバンドなどで、頼むといわれるとできないものも引き受けてしまう。泳げないのに頼まれて水泳大会に出場、当然、ビリ。一人だけになって泳いでは立ち、泳いでは立ちしても、とにかくゴールに達して手を上げれば、万雷の拍手をあびるというように、マイナス面をプラスに転化する陽気さ、エネルギーというか、あきらめないねばり強さみたいなものは、どんな時にも持っていました。良くいえば根性、悪くいえばおっちょこちょいでしょうか。
私が見習いに入った頃の京都の料理人は仕出しを兼ねている店が多く“廻り”という仕事があったんです。仕入れた魚を切溜(きりだめ)という箱に季節の本の葉や笹などを敷いて入れ、得意先を回って注文を聞き、それを調理して夕方に配逹するシステムです。しばらくするうちに、私は割と早く商売のこつがつかめました。魚の値段は全部憶えきれませんから、えらの下のつるっとした所に包丁で刻み目を入れておくのですが、先方に買いたい値段を聞いてから、値段を合わせたり、調理法で調整したり、間に入ってひとつ工夫をしますからすぐ売り切れました。中学二年の時から雑貨問屋でアルバイトをしていて、歯みがき販売係になったことがあったのですが、全然売れない。しかしちょっと気を遣って玄関を掃除して帰る、そうしていると何ヵ月先には買ってくれるようになるのです。それは、自分の気持を売り、自分を知ってもらうことです。ちょっとした気配り、心配りが大切で、買い手が喜んで買ってくれることが大切だということを小さい頃から知っていたように思いますね。これも商売のこつです。
仕事を憶えるのは要領ではなく、やはり年季です
一九歳で長谷川調理士会に入りました。仕事にみあった給料を早く欲しいと思い、また自分の道を自ら拓いていきたいという気持からです。山陰、山陽など次々と場所を変えて修業をつみました。一つの店である程度できるようになると次の店を求めるけれど、なかなかやめさせてくれません。辻留さんが「今まで教えた分をおいていけ」と言われたというエピソードを聞きましたが、上の立場になった時に初めてその気持が分かりました。しかし、若い頃はよりよい店へ、勉強のできる店へと血気盛んに急ぐものです。
見習いに入ったその日、だし巻をきれいに巻いている先輩がいて、確か入って六年の経験のある人でした。「私にさせて下さい」と言うと「そうか」といって場を空けてくれました。さあ、これがなかなか巻けません。破れたり、つぶれたり、その後その人に「洗いもんでもしとけ」と言われたのを憶えています。だし巻をきれいに巻けるためには六年の辛抱と時間が要るのだと赤顔のいたりでしたね。それからです。私がこの仕事に、要領ではなく基本的な技術を得るために真剣に取り組むようになったのは。
京都のある鰻料理の店に煮方に入った時のことです。ウナギは東京から職人が来ていて、私の仕事は煮炊きもの、だし巻、う巻、鯉の洗い、まあそんなところでした。その店の跡とりの人が朝の六時からウナギを開く練習をするのです。私もやりたくてやりたくてその人に一尾だけ内緒で開かせてもらうことにしました。五時に一尾だけ開いて、六時までにまな板の上に置いておくのです。でも一尾で満足できるはずがなく、何尾も何尾も、時には十尾も練習して、それを下水へ捨てて、一尾だけを残すというかなり悪いこともやりました。その店は遠州籠にいっぱいのウナギを入れて積んであって、少々のことは日立たなかったんです。こうして江戸開きを憶えました。そんな風にしないと仕事は憶えられなかった時代です。現在は手とり足とりという感じがしますが。
実はこれには後日談があって、その店のオーナーが私の店に食べに来られたんです。先方は私があの時の煮方だとは気が付きません。実はこうこうでしたとおわびをしたのですが、その社長は「やったことはよくないが、それぐらいの向上心、意欲を持って欲しい」と社員に訓辞をしたそうです。
一流になりたい、世に認められたいと切実でした
独立までの最後の店が、宇治にある「花やしき浮舟園」です。ここには八年おりました。オーナーとは親戚づきあいをさせてもらいました。実はこの時代、実を買い替えるのに銀行に融資を受けようとしたころ、普通は利子が八分なのに、料理人ということで信販を通じてしか借りられず、利子も一割二分も取られるのです。悲しかったですねえ。信用されていない、一人前の職業として認めてもらっていないんですよ、その頃は。何とかして人並の市民権を得たいと思ったのが次の転機になりました。
それは世に認められるということです。一流になりたいという気持です。その一つはマスコミでした。特に創刊以来、愛読していた『月刊専門料理』に載ること、これを目標にして自分なりの勉強を始めたのです。献立を考え、料理を作り、カメラを買ってそれを写して、家内と批判し合うということを続けていました。そのうちに読売新聞の家庭欄に連載をさせてもらえるようになったのです。料理を発表することは、確かに功罪あると思いますが、私にとっては恥をかきながらも自分の仕事を世に問うて批評を受けるという方法は、本当に自分を成長させてくれたと思います。
器への魅力が独立の引き金になったのです
そうこうしている内に、器に魅きつけられ、次から次へと買い求め、私の寝室の半分以上も占めるようになってきたのです。西日のあたる部屋だったので、夏は器が熱を持って、夜中までそのほてりで熱いし、冬は冬で、陶器の収縮と膨張のひずみなのか、貫入がピチピチ、ピチピチと音を立てるんです。これはもう使ってくれと言って鳴いているように聞こえましてね。それだけではないのですが、器は独立の大きなきっかけになりました。自分のデザインした器に自分で盛り付けてみたいという気持がふくらんできたのです。
昭和五十五年二月、背水の陣で店を持ちました。なにしろ開店のためにお金を使い果していましたから、かなりの間、前日の売り上げを持って市場にやっとのことで行くという状態でした。長い間、調理場に入っていましたので自分の固定客もないため一策を講じました。知人のうち十人を選び、その一人ずつに十人ずつの知り合いを連れてきてもらう、その人たちを招待したのです。十日間で百人を招いたことになります。なかには家族を連れてこられた方もいらっしゃったりして。十人の知人から一気に百人の知人に広がったというわけです。
十日がすぎたらバタッと客足が跡断えましてね。苦しくて、悲しくて、あせりましたが、そうですね、二、三ヵ月頃から招待した人のロコミから急にお客様が増えてきたのです。本当にうれしかった。二年後に増築、五年後に今の場所に移転したのですが、皆、本当に運が良いねと言ってくれます。本当にそうとしか言えません。
昨年、『銀沙灘』という私の料理の本を柴田書店から出させてもらいました。私が長年考えてきた京料理を一つの形にしたものです。おかげさまで好評を得ております。料理人としてもなんとか小さな市民権を得られたようにも思いますが、反面、その責任の重さをひしひしと感じるようになりました。
私は本当に京都が好きです。庶民の暮しの中に生きているつつましやかな習慣にも、本当に美しさを感じます。伝統も文化も恐しいほど奥が深い。知っても、感じても、つきるところのない興味がわいてきます。それが何なのか、私にも分かりません。きっと、京都のもつ歴史的、文化的な魅力、雅の世界が深奥にあるからでしょうか。京都の味もそうです。直截(ちょくさい)ではない、内に深い味付けというのか、やはり、“雅”でしょうね。
今年は五十歳になります。今後は一年一年、納得のできる生き方をしていけたらと思っております。