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INTERVIEW

別冊専門料理「日本料理の四季10」(平成元年発行)より

何とか、名の売れた料理人に

熊野 保氏(当時・なだ万 取締役総料理長)
 
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福島県直方市の料理屋から出発

 私は、日本料理の道に入ったのが一六歳の時ですから、同じ世代の人達の間ではスタートが遅かったと思います。当時は、一二、一三歳でこの道に見習いとして入るのが普通でしたから。
 福岡県直方市(のうがたし)殿町の鶏肉屋で、私は最初、小僧をしていました。地元の旅館や料理屋に鶏肉を納めていたのですが、その一軒の「開月亭」という料理屋の主人から「お前、うちの店に入らんか」と誘われたのです。その店の主人は、新興キネマの重役も兼ねており、映画館も持っていました。(中略)
 この店では、朝食は、従業員全員が一緒に集まって食べるようにしていました。検番も持っているので芸妓さんも、それに主人、映画館の支配人、料理長も、朝食の時は一緒です。そうした中で、支配人や料理長は主人から「さん」付けで呼ばれていて、いかにも大切にされているのがわかるのです。私は、つくづく「ああなったらええなぁ、大事にされるからええなぁ」と思いました。そのうちに、「頑張れば、俺でも何とかあのようになれるのではないか」と思えるようになってきたのです。
 そして、二年経ったころには、野菜を切ったり、包丁を研いだり、カツオ節を削ったり、吸いものの味付けをしたりと、だいたいの仕事はできるようになっていました。しかし、このまま片田舎にいたのでは仕事に限界があると考え、可能性を求めて取りあえず、当時、港湾都市として栄えていた門司に出ることにしたのです。
 門司の料理屋で少し働いてから、小倉の井筒屋百貨店の和食部門に入り、脇鍋として一年半ほど働きました。もう、そのころは、自分では何でもできると思っていました。
 昭和十二年、前に一緒の店で働いていた料理長から満州の奉天の「井筒」という料理屋で二番で働かないかと誘われました。当時、日本の領土となった満州国は景気がよく、日本から多くの料理人が渡ってきていました。私は、待遇のよいこともあって奉天で働くことにしたのです。給料は、それまでの三倍近く、それに食事や宿泊の条件も日本では考えられないくらいよいのです。
 ここで、三年くらい働いていたところ、日本一の煮方の名人といわれた中村種三という人が「福廼家(ふくのや)」という料亭に料理長としてきたのです。中村さんは山下茂先生(戦前に、「醍醐」、「長生殿」などの料理屋を開店。戦後、山下料理専門学校を設立。四條流十二代家元)の師匠で、当時、包丁の三羽烏の一人といわれた津田庄太郎の弟分です。私は、いいチャンスだと思い、勉強のために中村さんの下で働くことにしました。その人の下で、私は本格的に煮方仕事を教わり、煮方としての第一歩を踏み出したのです。
 ここでの煮方の修業の経験を生かして、「井筒」へ再び戻った時は、料理長を初めて経験することになったのです。
 こうして、私は昭和二十年まで満州にいて、その年の七月に招集を受けました。そして、終戦後は昭和二十二年までシベリアで抑留生活を送ることになったのです。

大阪で煮方の修業を一からやり直す

 シベリアから帰国して、いったん郷里の熊本に身を寄せていましたが、奉天時代の友人から呼ばれて、川崎でしばらく世話になりました。戦後の混乱期で、なかなかこれといった仕事がみつかりませんでしたので、福岡の福繁会という調理師紹介所に世話してもらい、「香椎花壇(かしいかだん)」に煮方として入ることになりました。
 そこをやめてから、博多の「やま祢(やまね)」に二番で行きました。「やま祢」は客筋がよく、博多を代表する料亭で、材料もよいものを使うので評判もよかったのですが、私としては料理の内容もきまってしまい、あまり勉強にならないような気がして、そこも飛び出してしまいました。
 博多出の親分で、「京城花月別荘」の料理長、林友(やはしとも)というおやじさんが、博多に帰って、別府の「清香園」に声がかかりました。戦前は朝鮮の京城で総督府の御用料亭を経営していた経営者が別府に引き上げて開業したのが「清香園」で、戦前からの関係で客筋がよく、非常に繁盛していました。当時、博多の料亭で最高の月給が一万五〇〇〇円といわれていた時に、「清香園」では私に二万五〇〇〇円を出す、というのです。
 給与の額というのは料理人にとって、自分の料理の腕に対する評価のバロメーターのようなものですから、どうしても給与の額にはシビアになります。その地域で最高の額をもらうことは、料理人の世界で名前が売れることにもつながるわけです。
 私はこうして別府の「清香園」で約一年半、料理長として働きましたが、知事とか市長が毎日のように見えるので、その度ごとに献立を変えなければなりません。そうしたことに多少嫌気がさしていたところに、調理師試験が実施されるという新聞の記事が私の眼にとまったのです。このことが、その後の私の料理人としての道を大きく変えることになりました。
 私は、この記事をくいいるように見て、やもたてもいられず「清香園」をすぐにでもやめて、大阪へ出て修業をする決心をしました。私にとっては料理人として、一からの再出発です。
「清香園」の主人からは、「お前、もう二五、六歳にもなって、いまさら勉強なんて、いったい何を考えてんのや。九州で最高の月給も取っているんだし、いかんでもいいんじゃ。今のままで充分、料理長もつとまるんだし、大阪へわざわざ苦労しにいかんでもいいんじゃ」とさんざん止められましたが、私の決心は変わりません。
一流の料理人になるためには、やはり一度は大阪で修業してみなければ話にならないと思ったのです。
 行く前は、一年から一年半の修業の心づもりでしたが、私もすでに二五歳ですから、大阪に出たからには最初から一流の料理人の下につきたいと思いました。当時、上方料理でピカ一と言われていた料理人に北岡萬三郎という人がいました。「つる家」の出身で、「出井(いずい)」の弟子にあたる人です。私は、三年間、給料はいらないからという条件で、北岡さんの下でまず働くことになりました。宗右衛門町の「清流」という店です。大阪で給料をもらわなくても食べていけるだけのお金を持って出てきていたからです。
 それから、次に「箕面観光ホテル」に移りました。大阪で一流といわれる料理人の店を何軒かまわらないことには、一流にはなれないと思ったからです。
 結局、私は大阪で七年間、徹底して煮方としての勉強をしました。この間、一〇人ほどの料理人の下で働いたことになります。大阪を舞台に、こうしたいわば他流試合ともいえるような修業を積んできたことが、その後の私に大きな自信になったことも事実です。
 その後は、天王寺の「阪口楼」、南紀白浜の「ホテル古賀の井」、宝塚の「第一ホテル」、琵琶湖大橋畔の「ホテルレイク琵琶」の料理長を勤めました。そして、昭和四十八年、ホテルニューオータニ新館が完成し、新館内に「なだ万」が開店するのを機に、「なだ万」全店の総料理長として㈱灘萬に入ることになったのです。
 迎賓館をホテルニューオータニが一部担当し、日本料理を「なだ万」が請け負い、迎賓館で出す料理を一度、手がけてみたいといった憧れも、同社に入った動機の一つでした。

料理人には繊細な神経が要求される

 こうして振り返ってみますと、私は、実に多くの店で働きました。私達の時代は、「五年以上同じ店で働いていたら、次の店ではカビがはえていて使いものにならん」とよく言われたものです。と言いますのは、同じ店に長くいると、一つの仕事にはまって応用がきかないといった面もありますが、もう一面はどうしても惰性に流されて、頭をあまり使わなくなってしまうからだと思います。
 いつもそうですが、新しい調理場に入って最初の二、三ヵ月というのは本当に神経がとがっています。また、そうでなければ、いい仕事はできないでしょう。親方や支配人が何を考えているのか、目の動き方、言葉の遣い方から相手の心を読み取るくらい、神経を遺う必要があるのです。また、仲居頭の口ぶりで、お客さまが何を要求しているかを察知するくらいでなければ、一流の料理人にはなれません。料理人には、繊細な神経が要求されるのです。
 私は煮方仕事を中心にやってきましたが、一人前になるまでには煮方が一番時間がかかるように思います。それは味付けというものが、微妙なバランスによって成り立っており、しかもそれらの要素が、いろいろの条件によって変化することが多いからでしょう。ですから、これは煮方に限ったことではありませんが、一流といわれる料理人の下について修業することは大切なことだと思います。
 しかし、なかなかそういう人は使ってくれません。使ってもらうためには、認めてもらうだけの働きかけが必要なのです。朝は人より早く、夜は人より遅く、仕事は二人前、給料は三分の一といった心掛けを持たねばなりません。ここ一番、苦労しなくては、いけないという時期があるのです。私にとっては、それが大阪での七年間だったと思います。

ていねいな仕事を心がける

 味つけと一口にいっても、おいしく感じてもらうには、地域によって、老若男女によってなど、微妙な違いがあります。煮方仕事というのは、その店の客層に合わせて、味付けを変えられなければ一人前とはいえません。地域差といっても、たとえば大阪でも、北と南では味の好みが違いますし、同じ南でも道頓堀をへだてただけでも、塩や砂糖の使い方ががらっと違います。また、福島区や大正区は船場に代表される大阪の味とは違います。そうした違いを知るには、やはり、いろいろな店で修業した中から、自分なりにその傾向を把握していくのです。
 私は、番茶を小さな急須に入れて、調理場に必ずおくようにしています。この番茶を、縁の薄い盃に入れて一度うがいをしてから、ものの味を見るようにするためです。吸いものの場合は、盃を洗って七分目くらいまで注ぎ、表面を吹いて体温くらいに冷ましてから盃を唇にあて、目をつぶって口の中に流し込み、舌の上でころがすようにして味を見るようにしています。
 味を見分けるというのは、このようにたえず同じ条件にして比較する、そのくらい微妙なものだと私は思います。時折、縁の厚い漬物皿やグイ呑み等に入れたものをグッと飲んで味を判断しているのを見かけますと、私などは荒っぱい味見をするものだと、ゾッとします。
 こうした味見の際に的確な判断を即座に下すためには、やはりそれなりの舌の訓練も必要です。たとえば、昆布とカツオ節の量をそれぞれ違えただしを二種類取って、その濃度を見分けられるよう、たえず自分の舌を訓練するのです。つまり、舌に覚え込ませるわけです。
 確かに、このようなことまでしなくても、多少いい加減にやっていても、きちんとできるかもしれません。でも、我々料理人はプロですから、プロの精神を学ばねばなりません。ちょっとした狂いは許されないのです。考えていたものが、常にきちんと、的確に出せることがプロの料理人の使命でもあるのです。野球にたとえてみれば、たえず変化球ばかり投げていたら、剛速球を投げようと思っても投げられなくなってしまうと思うのです。直球一本で常に打ち取れるくらいの気持ちで取り組む。それくらいの気概がなければ、バッターは切って取れません。バッターは、この場合、お客さまです。客層によってどこに球を投げるかを決めて、そこに狂いなくズバリ投げ込めるのでなければ、プロとはいえないのではないでしょうか。そうした微妙なコントロールを身につけるためにも、ていねいな仕事、日頃の訓練の積み重ねが必要なのです。
 ていねいな仕事というのは、ひとつひとつ考えて仕事をするということです。たとえば、料理によって紙蓋と本蓋の使い分けをする。刷毛でもサジでも、大きさの違うものを数本用意しておく。調味料の並べる定位置をきちんと決めておく。そうした、あたり前のことを守ることが大切なのです。(中略)

自由であることが最高の幸せ

 私は、つねづね若い料理人に「仕事は命から二番目ではない。仕事があってこそ我々の今日の生活があるのだから、若いうちから仕事を一生懸命やりなさい」と言っています。一生懸命努力すれば、名が売れるようになるのです。
 私は、何とか、名の売れた料理人になりたくて、今日までやってきました。それは、自由こそが、人間にとって最高の幸せだと、私は思うからです。生き方は人さまざまでしょうが、何ものにも縛られない自由を得るために、私は修業時代を常に現状に満足せずに努力してきたように思います。
 日本中どこでも働ける、使ってもらえる自由。その自由を獲得するためにも、名の売れた料理人、技術が評価される料理人にならなければなりません。
 私は、これまでに独立して店を持ちたいという気持ちはほとんどといってよいほどありませんでした。戦後の混乱期に生活のために、店を持とうかという時期はありましたが、その一時を除くと、全くといってよいほど自分の店を持つ気はありませんでした。
 店を持ったら、それだけ仕事が遅れてしまう。つまり、道草をくってるようなものに私には思えたからです。それに、その店にいろんな意味で縛られて、自由がなくなるように私には思えたからです。
 とにかく、私は若いころから、日本で名の売れた料理人になるのが目標で今日まで歩き続けてきたように思います。そして、志したからには何とか項上を極めたい、というアタック精神を常に心に持って、努力してきたつもりです。