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INTERVIEW

料理百科1「料理人列伝①」より

この仕事に近道はない

山本敏雄氏(関西調理師大京会 当時・会長)
 
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――時代も環境も違うから、もう私の話なんて、それほど若い人たちのお役には立たないかもしれませんよ、と、柔和な顔をほころばせる。
 山本敏雄氏。昭和11年、石川県生まれ。調理師会の中でも名門として知られる関西調理師大京会の総師である。

 小学校3年生の時が終戦でした。まあ私の家に限らず日本中が貧乏で、とにもかくにも食べる算段をしなけりゃならない。もう労働力の一人ですよね。10歳になって、幸いなことに、従兄が地元の旅館で支配人として働いていたので、そこで小間づかいのように使ってもらって。朝、6時に起きて、その日調理場で使う火を炭で起こすのが私の最初の仕事。それからご飯をいただいて学校に行くわけです。学校から戻ると調理場の中の雑用係。
 直接、料理を教わることはなかったのですが、門前の小僧で、何となし料理は身近にありました。料理のそばにいたという点では、それが修業の始まりということでしょうか。

――その後、昭和の名料理人の一人に数えられる西村元三朗氏との出会いが、山本氏の運命を決定的なものにする。

 昭和27年のことですが、大阪に出ました。16歳でした。その頃はもう学校も終えていて、地元で料理人の真似事をしていた。といっても、料理人になろう、なんてはっきりした決意があっての選択じゃありません。食べていくには、それが一番私にとって手っ取り早い道だった。料理が身近だったし、手に職があれば何とか生きていけるだろうというのが、小さいながら子供心にもあってね。
 料理界の話はいろいろ入ってきます、田舎にいてもね。一流になると料理人もすごい給料が取れるらしい。西村先生は当時からこの世界ではスーパースターで、人の話では5万円の給料だという。物価、どうですか、今は50倍ぐらいかな? もっと?
 どうせ料理人になるなら自分もそうなりたい、せめて近づきたい。人情だよねぇ、この気持ちは。つてを頼って大阪に出ましたが、いきなり弟子入りはできません、私みたいなのがごろごろいるわけだから。先生の口ききで店を紹介していただいて、そこで本格的な修業の始まりです。
 神戸にあった料亭旅館。最初の仕事は玄関番と風呂炊き(笑)。鍋洗いどころじゃない、その前段階からの修業です。それを半年ぐらいさせられましたかねえ。給料は安いですよ、修業させていただいている身ですから。今ではとても通用しない話でしょうが、当時はそれが普通の感覚でした。食べさせてはもらえますし、休みも月に1日か2日ぐらい、金を遣う機会もあまりないんです。まわり中が似たようなもんでしたから、さほど苦しいとか、辛いとは思わなかったですがね。

――うろうろ3年という言葉がある。手取り足取りで料理を教えてもらうなどという世界ではなかった。見よう見真似で、仕事の流れを覚えていく。それを3年。この期間で師匠や兄弟子たちが、使えるか使えないかを判断する。

 気がきくかどうか。これが大事でね。次に何が起きるのか、それを瞬間瞬間で判断して、調理場の動き全体が途切れないように準備したり、後片付けをしないといけない。あまり馬鹿じゃできないんです(笑)。
 大変は大変でしたが、思い起こすと私にはそれが良かったのかな。料理は、和洋中を問わず、結局は流れでしょう。どこかで停滞しているようじゃ、絶対に美味しいものはつくれない。手際の良さというかね。その大切さを肌にしみこませて実感させてくれた時期のような気がします。
 このうろうろ3年をどう過ごすかに、料理人として立てるかどうか、それがかかっているのかもしれません。

――神戸には一年ほどいて、次は大阪の伊丹へ。ここには3年。目まぐるしい移動がこの後も続くが、これは師匠や兄弟子の引き立てによるものだろう。見込みがあると判断されれば、新しい場を与えて、ステップアップを図ってくれる。当時の良き慣習である。

 比較的、短期間で店を移っています。ごく若いうちの移動は西村先生のご指示や、先輩の引きによるのですが、それなりに基礎ができてからは、先生の後を追いかけるような形でね――。といっても、先生の行かれる店に入れる幸運に恵まれるなんていうのはあまりありません。空きがなければ無理な話なんです。でも、そばにいたいので、近くの店に入れてもらう。直接、教えてもらえなくても、そばにいるだけで何となく違うんです、見えてくる世界が。
 先生の行かれる店に入れる場合でも、技術や年期に応じたポストが空くとは限らないわけで、一段下がった位で働くというのもしょっちゅうでしたよ。もちろん、給料は与えられた仕事によるわけですから、下がります。損得抜きでしたねえ、それは。
 うーん、どういえばいいですか、金じゃなくてね、腕に技術を入れてもらうんだ、そんな気分なんですが、分かりますか?

苦労が必ず報われる世界なんです

――西村元三朗氏は、その腕もさることながら、性格に偏頗(へんぱ)なところのない人格者で、酒も飲まない人だから、殴られたり蹴られたりという記憶はほとんどないという。ただし、仕事には厳しく、縮みあがるような思いをすることはしばしばであった。

 その日の献立を先生が立てられて、そのまま出かけられる。その間に下処理、仕込みなどを済ませるわけです。で、戻られたときにその仕事が気にいらないと、何もいわず仕込んだ材料を捨てられてしまう。殴られるほうが、まだ気が楽ですよ。
 材料を仕入れ直して、また始める。もちろん自腹でね。そりゃそうです、先生ご自身の店ならいざ知れず、先生も調理場を預かっておられるわけですから、店の原価を守る責任がある。自分の技術の未熟さへの苛立ちと、経済的負担の重さ。ダブルパンチ(笑)。こたえますよ。僕らの世代が共通して材料を大事にするのは、そういった教えられ方が影響しているのかもしれませんね。今、そんなことしたら、若い人がいなくなっちゃうかもしれないですが――。

――よくいわれることだが、技術はあくまで盗むもの。今と違い直接、教えを受けるということはほとんどなかった。同僚も競争相手。仕事を終えれば仲良しでも、仕事中は敵同士のようなもの。調理場は戦争状態であつた。

 頭とからだ。両方の機転がきかないとだめなんです。盗むといっても、そばでじっと見ていられるわけじゃない。自分の仕事をてきぱき片づけながら、目の端で追っている。煮物の鍋なんかもぼやぼやしてると、さっと水につけられてしまう。その前にぱっと引き取って、こっそり味を見る。大っぴらにはできないんです、そんなこと。生意気な真似するな、なんて怒鳴られるのがおちだから。封建的、非合理といわれれば、それはその通り。料理人なんて聞こえはいいけれど、世間の人からは極道、雲助といわれていた時代でね、ひどい人はひどかった。でも反面、やる人はやるんです、仕事を。平均的な社会じゃないんだなぁ。やる人とやらない人の差が極端でね。
 教えられるんじゃなくて、自分がからだを張って身につけていく技術だから、その分強いということもある。工夫もします、何といっても元手がかかってるから(笑)。そういう意味では、今は恵まれすぎていて、逆に名人上手が生まれにくいのかな。

――とにかくよく働いた。その資質が認められ、次第に名のある店を任せられるようになるのだが、中でも銀座の霞月という店は忘れられないという。昭和40年頃のことである。

 料理は食べてもらって初めて料理。これを実感させてくれた店でした。いいお客さまの多い店で、一人よがりをたしなめてくれるというか――。腕ができてくると、慢心というわけじゃありませんが、どうだ、という気分になる。俺の味が分かるか、なんていうやつです。料理技術とは別の次元にある商売感覚を学ぶ。お客さまに迎合するという意味じゃなくて、喜んで召し上がっていただかなければ料理とは呼べない。いいお客さまに出会えてなかったら、それが分からずじまいだったかもしれません。
 修業に終わりはないなぁ、という思い。それを分からせてくれた店でしたね。

――帝国ホテルの灘萬の副料理長に招かれたのは昭和45年。腕に脂が乗りだす時期。毎日の睡眠はせいぜい2、3時間だったろうという。それ以後も名店と呼ばれる料理屋で腕を揮い、昭和57年に大和実業の総料理長。平成5年、大京会会長就任。同7年、江戸の名工受賞。名実ともに日本料理界を代表する立場であるが、今も気持ちは若々しい。

 若い料理人に何を伝えるべきか。これは難しい。前にもいいましたが、本当に時代が違っていますのでね。ただ、ひとつだけいえるとしたら、この仕事に近道はないということでしようか。いきなり、名人天才にはなれない。基礎をみっちりやる以外にないんです。おかげさまで料理人の社会的地位も上がって、スポットライトのあたる華やかな世界になってきましたが、逆に気が焦るということもあるんでしょう。熱心だし、センスもいいんだが、基礎ができていないばかりに、だめになっていく料理人をよく見受けます。もったいない。
 焦らないで、自分の足元を見つめてほしいと思いますね。階段は一段ずつ登っていくほかない。若いうちに無理して駆け上がっても、どこかで歪みが出ます。一所懸命基礎を勉強してほしい。苦労してほしい。それが必ず報われる世界なんです。
 基礎が固まったら、逆に日本料理という小さな枠にこだわらず、新しいことにもどんどん挑戦してほしい。今、古典的とか伝統的といわれている料理も、先人たちが挑戦してつくり上げてきたんですから。
 私もまだまだこれから。若い人と情報交換して、新しいことに挑戦していきたい。一緒に頑張ろう、という気持ちです。