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INTERVIEW

1986年 グランシェフ2 「時代を駆ける男たち」

日本での第三の出発に大いに賭けたい

中村勝宏氏(ホテルメトロポリタンエドモント名誉総料理長)
 
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チャンスは自分の手で取っていくもの

 フランスには15年ほどいましたが、地方を回り始めてからフランスの豊かさというものに圧倒され、パリでは得られないものを身につけることができたと思います。やはリパリだけでは、フランス料理の本質というのは見えてこないのでしょうね。ブドウ畑の中に一軒ポツンとあるようなレストランで四季を過ごしてみると、驚くことがたくさんある。そうした体験が今の僕の肥やしになっていると思います。
 地方での修業を経てパリに来た時に、「ブルドネ」という店のシェフの話があったのです。その時の店の状態は最悪で、そのままいけば店を閉めなければいけないという様子でした。でも自分にチャンスを与えられたと思い、僕はシェフを引き受けたのです。
 まず第一はコストを抑えて、とにかく経営を立て直そうと必死でした。もちろん料理もそれまで以上のものを出さなければなりません。これは今でもそうですが、一度来てくれた客に必ずもう一度来てもらうような料理を作る。これが僕のやり方です。当時はほとんど家にも帰らずに、それまで星のある店で自分が修業してきて得たものを、すべて吐き出すつもりで全精力を傾け、ブルドネに賭けました。
 後も先もない、ただ突っ走るだけ、というのが正直なところだったと思います。自分のすべてを出した、とは言い切れますが、でも余裕というものがなかったな、と今になってふり返ると反省させられます。精神的にゆとりがないと、新しいことを考えてもなかなか浮かばないものです。しかし、この時期があったからこそ、今の僕がある、ということも言えると思っています。
 でも、それだけ努力したからといって、日本人である僕がミシュランの星を取る、しかも引き継いで8ヶ月後に取るなどということは普通では考えられないことです。店にそれほど名声があったわけでも、業界に顔がきいたわけでもないのですから。
 ただ今にして思うと、ミシュランは僕の仕事を、その前の修業時代に評価してくれていたのではないかと思うのです。最初はアルザスの「オー・ザルム・ド・フランス」ででした。シェフ・ソシエだった僕の作った料理、ソテー・ド・ブフ・オー・ピノ・ルージュをミシュランの人がほめてくれたのです。調理場にニコニコ笑って入ってきた人が、握手をして肉の焼き方もソースもすばらしい、と言ってくれたのです。それがミシュランの人でした。そして僕の名前、経歴をメモしていったのです。
 2回目は南仏の三ツ星「ロワジス」です。今度はノワゼット・ダニョー・ヴュー・ポルトでした。忘れもしません。主人のルイ・ウーチェ氏と一緒にミシュランの人と話をし、また僕の名前を聞いていきました。
 そして3回目が、僕が初めてシェフをやっていた店ブルドネだったのです。彼らが名乗ってくるという時は、すでに3回は下見に来ているといわれています。ブルドネの時は僕のセルティフィカ(経歴証明書、各店が発行する)をコピーしていき、いろいろ話をメモしていきました。
 このような何回かの積み重ねがなかったら、たぶんミシュランの星を取ることなど、できなかったと思います。チャンスというのは、こうして自分の手で取っていかなければ、突然に舞い込むということはないのでしょう。

「経験」が自分に自信を与えてくれる

 星を取ってからのブルドネも、三ツ星の仕事はできませんでした。それまでの料理に少しでも何かを上乗せして、少しでもいい料理を作ろう。それだけでした。店には格というものがありますから、シェフがいくら三ツ星の料理をやろうと努力しても、いろんなハンディがあって、おいそれと出すことはできないものです。
 その点、日本に帰ってきた今こそ、自分が持つすべてのテクニックを使い、使える材料をフルに使って、自分のこれまでのベストに近い料理を出すことができるのではないかと期待しています。フランスで15年料理をやってきたということ、ミシュランの星を取れたこと……これらのことは僕に自信を与えてくれます。僕はやれるんだ、という信念みたいなものを、持っています。
 最高の材料を使うといっても、何でもかんでもフランス産の素材を使うということではありません。それはコスト的にも問題を生じますし、第一、そのことは料理人の自己満足にしか過ぎません。
 ただ、そうだからといって逆に、何でも日本の素材ならいい、という方向もとりたくはありません。フランスで自分が得た感覚、知識、技術で日本の素材をもっと研究してみたい、とは思います。それは僕自身のこれからの課題だと思っています。しかし、すべて日本的素材に限定する、という極端な方向には走りたくないのです。やはり、自分のこれまでのフィールドの中で、自分に合ったフランス料理というものを形作っていきたいと思っています。
 日本で料理人として出発した時は、僕にとって第一の出発でした。それから渡仏して、ブルドネで星を取った時が第二の出発だったと思います。当時はヌーヴェル・キュイジーヌが盛んでしたが、あの動きは若手料理人が何かを創り出そうとする意欲を燃やす機会を与えてくれた点で、私にとっても大いに刺激になりました。
 そして日本に帰ってきた今、第三の出発が始まりました。この新しい出発に自分自身、大いに賭けたいと思っています。