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INTERVIEW

別冊専門料理「日本料理の四季9」(平成元年発行)より

まず、基本を頭に叩き込むこと

中川 武氏(当時・鳥よし〈大阪〉 料理長)
 
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 私は八人兄弟の六番目(三男)。兄弟の中では一番おしゃべりだったせいもあって、「武は商売人にさせたらよいだろう」ということで、たまたま父と釣り友達だった「八百権(やおごん)」という八百屋の主人のところに働きに行くことになりました。
 私の家からは一〇分足らずのところなのですが、住み込みという形で、家へ帰るのは正月だけ、休みも正月だけ。働くというより、いわゆる奉公だったわけです。
 終戦後、まだまもないころですから、食べものも配給で、満足なものは食べられない時代です。ましてや、奉公の身ですから、麦ご飯を何日も前のものを温め直すので、夏などすえた臭いで食べられたものではありません。ですから、料理屋に配達に行くのが楽しみでした。配達に行くと、「おい武やん、そこのもの洗ってくれや」とか、「ゴミを捨ててきてくれや」とか、いろんなことをついでに頼まれます。でもそうすると、帰りに「ご飯、食べていけや」と言われるのです。
 調理場の主任さんにその言葉を言ってもらいたくて、私は一生懸命、手伝ったものです。温かい白いご飯が食べられる、その思いでいっぱいでした。そして、「よし、俺も板前さんになってやろう」という気持ちが、そんなところから芽生えてきたのです。(中略)

板前への第一歩を踏み出す

 板前になりたくて、私は一年八ヵ月ほど働いた「八百権」をやめて、大阪で料理の修業をすることにしました。入れ方に頼んでいたのですが、なかなか連絡がないので、八百権の得意先の一軒である「戸田家」という由緒ある旅館の調理場で二週間ほど手伝いをしました。
 ちょうどその時、料理長の堀内作一さんのところに前田さんという人が尋ねてきたのです。その前田さんに堀内さんが私のことを頼んでくれたのです。
 前田博隆さんという人は、当時、三前田の一人と言われ、大阪の料理人仲間では知らない人がいないほどの超一流の職人でした。その前田さんが私のことを引き受けてくれたのです。(中略)
 最初に入った店は、道頓堀にある「いづもや」という食堂でした。まずは、大阪になれるためにということで三ヵ月ほどいました。
 前田さんは、そのころは職人をやめて、大丸百貨店前の文楽市場の中に家を構えて、フグの時期はフグをさばいて、料理屋に卸す仕事をしていましたので、十月に入るとフグが始まるからということで、私は文楽市場の前田さんのところで働くことになりました。
 毎朝四時に起きて、まず自転車で魚市場へ行くのが一日の始まりです。冬の寒い時でも、手袋もせずに魚市場からトロ箱に入ったフグを積んで帰ってくる。もう、寒さで自分の手がわからないくらい感覚がありません。そこで、ぬるーい湯の中に手を浸けて、徐々に感覚を戻すのです。それから、トロ箱で五杯くらいのフグを水洗いして、配達にいくのです。毎日毎日が、そのくり返しでした。
 ある時、私の包丁の入れ方が悪かったのか、前田さんが持っていた出刃の柄で私をパーンと殴ったのです。大阪に出たら、先輩には「黒のものを白といわれても、はい、と言わな、いかん」と教えられていたのですけれど、その時の怒り方が私を憎いような感じでしたので、私もカーッとなって、思わず前田さんを刺そうとしたのです。短気もんの性格の上に、修業が足りなかったのですね。
 ちょうどその時に、「武ちゃん、何するんだ」と言って、私をつかまえてくれたのが熊野保さん(なだ万・取締役総料理長)です。熊野さんは、たまたま前田さんのところに遊びに来ていたのですが、あの時、止めてもらえたからこそ、現在の私があるのだと感謝しています。
「すぐに、謝りなさい」と言われて、謝って、謝って、何とか許してもらいました。
 また、仕事以外のことでもいろいろと怒られました。ですから、前田さんのところにいた時は、いつも神経がピリピリしていました。前田さんは他の職人さんが知らないような仕事をたくさん持っていました。たとえば、フグの白子だけを固めるのですが、今もってむずかしい仕事の一つです。粉乳を使うことだけはわかるのですが、肝心なところは一切、人には見せないで自分でやるのです。
 でも、当時、私はまだ自分が料理人だという意識がありませんでしたから、あまり興味がありませんでした。もっと欲があれば、前田さんの仕事を盗もうとしたかもしれません。

本格的な修業に入る

 フグの季節が終わると、箕面観光ホテルの調理場に行くように前田さんに言われました。園山清市さんが初めて料理長に就任するというので、私を坊主(雑用係)として行かせたのです。園山さんは、その後の私の師匠ともいうべき人です。私としては、ここがいわば初めての本格的な修業の場になりました。昭和二十六年、一八歳のことです。
 この箕面観光ホテルでは、園山さんの下で三年ほど修業を積みました。仕事の経験はもちろんのことですが、人間的な経験といったものも、ここで積んだような気がします。
 この調理場には、最初、煮方にあの熊野さんがいて、その後、桑原清二(古泉閣料理長)さんが煮方になりました。
 このころは、本当にいろんなことでよく怒られました。人が失敗したものでも、私がそばにいると、「お前、こうやないか」と言われます。それに対して、私が「違います」と言うものですから、逆にごつう殴られたりもしました。(中略)
 その箕面観光ホテルを私は三年ほどでやめることになりました。
 三年目には、私は脇盛になっていましたが、いけずな先輩が一人いたんです。休み時間になると、調理場の下の広っぱで相撲をとろうということで、私を引っぱり出すんです。私は背は低かったですけど、八百屋で鍛えられましたから力は強かったのです。
 負けられるかと思いますけど、相手は先輩ですから、わざと投げられなければなりません。そんなことばかり考えていましたから、弱い奴ということで余計にいじめられました。
 そのころ、坊主で修業に入ってきた人がいたのですが、その人が、私と同じようにいじめられるのです。私は我慢していたのですが、その人は、我慢できなくなって、ある日、その先輩の使っていた柳刃、出刃、薄刃の三本の包丁の刃を調理場のたたきでこすって使えなくしてしまったのです。
 当然のことながら、その先輩は園山の親父にそのことを言いました。すると、親父は「こんなことをするのは料理人の風上にもおけん。こんな奴は料理人になれん」と私のほうを見て怒るのです。
 実は、その日、私は早く目がさめて、調理場でその若い人が包丁をたたきでこすっている現場をたまたま見てしまったのです。心で「私、違いますねん」と思っても、人のことを言うわけにもいきません。
 その翌日になっても、親父は私をにらんであてつけるような怒り方をするのです。そうした日が五日間ほど続きました。
 私は「もうやめなあかん」と思って、「すいません。今日一日で上げさせてもらえませんか」と親父に言いました。そしたら「晩までおらんかてええ、今、早く行け」と言われて、それで、やめることにしたのです。
 それから、関西割烹で紹介してもらった店で働いていたのですが、一週間ほどして向板の人が訪ねてきて、「お前は、馬鹿と違うんか。親父は誰がやったかくらい見抜いているわ。やった奴はうちの若いもんと違う。首を切れば、そいつの親父のところに行って、自分をよく言うだろう。だから、お前を怒れば、そいつはいたたまれなくなって、自然とやめていくはずだ。そんなことをお前は気がつかないのか」と叱られました。
 私は、早速、親父のところに謝りにいって、それからは、個人的にまた親父のところに出入りできるようになりました。
 そんなことから、人間というのは生きていくのに相手の身にさえなって考えておけば、まちがいないな、ということだけは今も忘れはしません。

桑原清二さんとの出会い

 箕面観光ホテルの調理場では、特に桑原さんにかわいがってもらいました。私も本当の兄貴のように慕っていましたから、やめてからも桑原さんの下で働きたくてしょうがないのです。
 箕面観光ホテルをやめた後、入れ方をとおして、三、四軒の店で修業をしていましたが、その桑原さんが初めて主任として九州の小倉の「銀鍋」という店に行く時に、私を煮方にと指名してくれたのです。
 私は、そのころはまだ半煮方でしたので、小倉へ行って桑原さんから本当の煮方の仕事を教えてもらうことができました。
 しかし、小倉から帰ると、桑原さんは有馬温泉の「古泉閣」に、私は北の「松市」へ入りました。入れ方の都合で、自分の思うとおりにならないのです。
「松市」では、上岡善市さん(後に、北乃大和屋料理長)の下で煮方をしました。その後で熊野さんが料理長になって、その下でも煮方として働きました。
 そうしていたところが、ある時、「古泉閣」にあきができたというではありませんか。また、桑原の兄貴の下で働ける、ということで早速「古泉閣」に入りました。二三歳のころです。
 向板で入ったのですが、桑原さんに「向板ではあまり給料でんぞ、アホか、お前は」と言われましたが、私にとっては桑原さんの下で働けるなら何でもよかったのです。
 そうして、二六歳で鳥羽の「錦海楼」に主任として入るまでの三年間、煮方として桑原さんの下で働きました。

修業時代には基本だけを覚える

 私の場合、恥ずかしい話ですが、若いころは字は読めても書くのは苦手でした。ですから、修業時代に仕事を覚えるのに、よく帳面に書いておく人がいますが、私はすべて記憶するように心がけました。頭の中にきちんと入れておくわけですから、書くよりしんどいです。
 仕事中でも、上の人が仕事の話をしている時などは、じっと聞いていて頭の中に仕込んでおくのです。人のやっている仕事も、じっと見ていて、砂糖は何杯入れたか、それからどのくらい炊いてから塩を入れたか、といったような覚え方をしておくのです。
 そうすると、たとえば煮方になった時に、それまで経験したことのないような素材がまわってきても、その時の記憶を思い出してやると、あまり迷わずにできるのです。
 ただし、仕事を覚える時に、何から何まで記憶しておいたわけではありません。
 私は、とにかく料理の基本だけを覚えるようにしました。自分が上に立って仕事ができるようになるころには、時代も変わっています。でも、基本は変わらないはずです。それを元手に自分で、その時代に合った料理を生み出していけばよいと思ったからです。
 今の若い人に料理を覚えるコツを私はよく、ピアノ線と天蚕糸(てぐす)にたとえて話をします。
 ピアノの裏を開けてみると、ピアノ線が真っすぐ何本も張られています。たとえば野菜なら野菜の炊き方には基本があります。それをきちんと覚えておけば、どんな材料がきてもどこまでいっても同じなのです。頭の中にこのピアノ線を何本も持っていることが大切なのです。
 ところが、天蚕糸がこんがらがっているように覚えたら、余計ややこしくなってしまう。そういう覚え方をしていたら、いつまでたっても役に立たない、と言うのです。
 ピアノ線のように基本をキチンと覚えたら、いちいち「これはどうしましょ」と聞かなくてもわかるはずです。
 一つひとつ作った料理を覚えるのでしたら、たとえ何億覚えたとしても、それをすべて出しきってしまったら、それでその人にはそれ以上の仕事はないわけです。ですから、私はそんな一つひとつの料理は覚えなくても、基本だけ覚えるようにしたのです。
 修業の過程では、私もいろいろな親方の下について働きました。親方によって、仕事の内容も違いますし、やり方も違います。園山の師匠に言われたのは「いろんな人の仕事を見て、その中で一番よいのを取って、自分が上に立った時に、それを出していけばいいではないか」ということです。
 修業に行くというのは、いろんな人の腕を習いにいくのが修業だ、というわけです。ですから、私は早く一本立ちするよりも、人の下、人の下に行って、仕事を多く覚えるように、自分に言いきかせていたものです。
 振り返ってみますと、修業時代に、あくまでも基本を第一に、数多く、正確に、きちんと頭に叩き込んでおいたことが、その後、私が上に立ってから、どんなに役に立っているかしれません。