心からのサービスは真似できない
いまから30年前、愛知県名古屋市の郊外で産声をあげた「カレーハウス CoCo壱番屋(以下CoCo壱番屋)」。家庭の味であるカレーでチェーン化するのは難しいという外食業界の定説を覆し、いまや1000店を超えるチェーンにまで成長した。ただし、宗次德二氏・直美氏夫妻が創業したのでなければ、CoCo壱番屋はここまでの規模にはならなかったはずだ。
心のサービスという言葉には、どこかうさん臭さを感じてしまう。他を圧倒するシステムや技術力、突出した商品、卓抜したオペレーション力などを構築できなかった経営者が、逃げの口上として使っていることが多いからだ。
もちろん、いくら優れたシステムであろうと、そこに関わるのが人である以上、心の問題から逃れることはできない。画期的なシステムで急成長したチェーンがその後に低迷する様をよく見かけるが、それはシステムの劣化というよりも、それを使う側の人に慢心や怠惰といった心の問題が生じたからに他ならない。
逆に言えば、ありふれた商品やシステムでも、それを提供する人が全身全霊を傾けて磨き抜けば、光り輝く珠になることもある。それを目の当たりにさせてくれるのがCoCo壱番屋だ。
失礼な言い方かもしれないが、CoCo壱番屋には他社が真似できないような商品やシステムはない。メーカーの技術協力さえあれば、同じような供給システムをつくることはそう難しくないだろう。だからこそ、多くの外食企業が似たようなカレーショップを開発し、多店化をめざしたわけだが、しかし、モノになったチェーンはない。
この違いを生み出すものは心からのサービスしかない、というのがCoCo壱番屋の考え方だ。直美氏は「形の真似はお金があればいくらでもできるが、心の部分は絶対に真似できない」と強調する。德二氏もまた個性的な商品の開発に汲々としている外食業に、「味づくりの前に、店をきれいにしたり、サービスをよくするなど、お客さまを迎える姿勢を整えることが大切ではないか」と疑間を投げかける。
ちゃんとした商売をすれば立地なんてどこでも大丈夫(直美氏)
――2人が初めて二人三脚で開いた喫茶店「バッカス」は、德二氏が不動産業で独立した翌年の1974年10月1日、名古屋市西区浮野町にオープンする。規模は18坪40席、開業資金は700万円。うち200万円が自己資金で、残りの500万円は地元の信用金庫から借り入れた。
その交渉には德二氏があたったが、しかし、後にも先にも德二氏が資金を調達したのはこの時だけだった。
「喫茶店をはじめたのは西区の場末で、決していい立地とは言えなかった。でもそれ以外に物件は見ませんでしたね。2人とも迷うということがないんです。インスピレーションでパッと決めましたが、これはCoCo壱番屋の出店も同じ。駐車場が取れるか取れないかだけでしたね、判断の基準は」(德二氏)
「市場調査って何のためにやるのか、いまだにわかりません。ちゃんとした商売をしていれば、必ずお客さまは来てくださるのに」(直美氏)
「僕は外食業にまったく興味がなかったから、最初はママとアルバイトだけでやる予定だったんです。それでもオープンの粗品配りぐらいなら手伝えるかな、とお店に行ったら、開店景気でたくさんのお客さまが来てる。不動産業とはまったく違う世界だったことに衝撃を受けて、その日のうちに不動産業の廃業を決めました」(德二氏)
――休みなく働く日々がはじまり、1年後の75年10月には、2号目の喫茶店「浮野亭」をバッカス近くにオープンする。
「モノや値段のサービスは止めようと2人で話し合ったんです。その代わりに一人ひとりのお客さまを大切にしようと。1号店オープンの半年後には、『お客様、笑顔で迎え、心で拍手』というモットーをつくりました。朝一番のお客さまの姿が見えると、本当に拍手をしていたし、お帰りになる時には何をおいても入口まで出て行ってお見送りしました。その気持ちはいまも変わっていませんね」(德二氏)
「当時はいい加減な経営者が多かったんですよ。タバコを吸いながらコーヒーを淹れたり、競馬新聞を読みながらお客さまを迎えたり。私たちはそういうのが大嫌いで、掃除から何からきちんとして、いつも笑顔でお客さまをお迎えしようと思ったんです。商品にしても、たとえばサンドイッチならマスタードの量、ウインナコーヒーなら砂糖の量までお客さまにお聞きしてからつくりました」(直美氏)
――カレーを手がけるようになったのは1977年の春のことである。3号店の出店を視野に入れていたこの頃、德二氏は「いますぐにでも売上げを上げよう」とコーヒーの出前を思い立つ。
「その頃のうちのフードはサンドイッチやスパゲティだけでした。それで出前メニューにはライスものが必要だろうということで、カレーやピラフを加えることにしました。缶詰めやレトルトのカレーを試してみたもののおいしくない。だったら、ママが家でつくっているようなカレーがいいんじゃないかと、スーパーでいろいろなカレールーを買ってきて試作した。その中で一番おいしかったものをメニューにしたんです」(德二氏)
――CoCo壱番屋のカレーは、もともと喫茶店の出前商品として開発したものだ。ベースは市販のカレールーを使った家庭の味だが、これが日常的に食べるカレーには相応しかったのであろう、導入後すぐにヒット商品として定着した。
直美がつくったカレーは、仕上げにスパイスなどを加えてはいたものの、基本の味は市販のカレールーのそれだった。カレー専門店や凝り性のマスターがいる喫茶店のカレーのような際立った個性には乏しかったが、逆にそれが老若男女、幅広い客層に支持された理由であった。家庭で親しんでいる味だからこそ、お客は安心して食べることができたのである。
カレーの人気が定着すると、德二氏は3軒目の店をカレー専門店にしようと決意する。田んぼの脇に建つ三軒長屋の正面から見て右端の物件。スナックになる予定が手付け流れになっていたもので、食べ物屋をはじめるにあたって、有利な点を何ひとつ見付けられないようなこの物件が、CoCo壱番屋の1号店となったのである。
よそ見せずに目標を追えば、その延長線上に自然と次の目標が見えてくる(德二氏)
「ただ、やっぱりカレーだけというのは不安だったんですね。それで、当時は吉野家が急成長していた頃だったので、牛丼と2本立てにしようと考えた。店名もカレーと牛丼だから『CアンドG』でいいかなと思っていたんです。そんな思いを持って東京に行き、カレーの店を12店ぐらい見て回りました。そのひとつに僕が考えているようなカレーと牛丼の店があったのですが、とても女性や家族が入れる雰囲気ではない。それを見てカレー1本に絞ることに決めました。店名も帰りの新幹線で考え、静岡あたりで思い付いたのがいまの店名。『カレーならここが一番や!』と、関西弁をそのまま店名にしようと思ったんです」(德二氏)
「その名前を聞いた時、すぐにいいわ、と思いました。兄が進駐軍で働いていた関係で、実家には欧米のファッション誌があったんですが、そこで印象に残っていた『Coco Chanel』がすぐに頭に思い浮かんだからです。『ここ』の表記をアルファベットにしたのもそれが理由なんです」(直美氏)
――1号店である西枇杷島店は1978年1月17日に開店する。開店から2日間は12.5坪20席の規模で日商14万円と大変な盛況ぶりで、当時まだフランチャイズ(FC)に関する知識はなかったものの、德二氏は「これはFCになるんじゃないか」と直感したという。
だが、3日目からは閑古鳥が鳴いた。原因は忙しさにかまけて十分な応対ができなかったためだ。ぬるいままのカレーに、ちゃんと揚がってないカツやフライを乗せてしまい、ライスも途中で切らしてしまう。およそカレーの専門店にあってはならないことが続出していたのである。この時に失った信頼を取り戻すのには半年ほどかかった。
「その頃の平均日商は2万円程度。ひどい時には7000円強という日もありました。客数でいうと12人。しかもそのうちの8人は関係者だったから、純粋なお客さまは4人だけ(笑)。ただ、喫茶店の時も最初は苦労しましたから、自分たちのやるべきことをきちんとやっていればいい、と考えてはいました。すると半年ぐらい経って店は満席になるようになった。日商も毎月5000円ずつ上がり、12月には目標の6万円になった。当時日商6万円を超えたら2号店を出したいと考えていたので、年が明けた2月に一宮市に2号店を、3月には稲沢市に3号店を出したんです。その後はずっとこの繰り返し。よそ見をせずにひとつの目標を達成すると、その延長線上に自然と次の目標が見えてくる。店は生き物ですから、毎日問題が起きるけれども、目標を追いかけていると、それが辛くなくなるんです」(德二氏)
真似できない心の部分を教えるのがBSです(直美氏)
――その後の躍進については本稿では省くが、CoCo壱番屋が大きく成長する原動力になったのが同社独自のFCシステム「ブルーム・システム(以下BS)」だ。いわゆる社員独立制度だが、既存の害職業のように長年社業に貢献した社員に対する恩賞的な制度ではない。CoCo壱番屋で独立開業をめざす人ならば、一般のFCのように外部からの応募でもかまわないのである。
一般的なFCであれば加盟後、教育トレーニングなどの研修を重ねて開業をめざすわけだが、CoCo壱番屋の場合はまず社員として壱番屋に入社しなければならない。そして直営店で補佐や店長の経験を積んだ後、初めて独立の資格を取得することができる。通常は4~5年、最短でも2年間は社員として壱番屋の理念や「ニコニコ・キビキビ・ハキハキ」というモットーが叩き込まれるわけである。
CoCo壱番屋の最大の売り物は「心のサービス」である。これを加盟店に徹底させるには、従来のFCシステムの教育トレーニング研修では不可能という考えから生まれた制度がBSだ。一般的な加盟店のような“お客さま”ではないだけに、徹底してしごかれるが、その代わり独立後のロイヤリティ徴収はいっさいない。開業資金の銀行借入に対する保証など、金銭面でのバックアップも万全だ。
「形の真似なんかいくらでもできるけれど、心の真似はできません。それを教えるのがBSなんです。独立の条件のもうひとつは、夫婦で店に入ること。生業にこだわってほしいというのがその理由です。独立する人たちには、『街の食堂になってください』とお願いしてきました」(直美氏)
「私たちは手づくりのFCチェーンと言っていますが、要するに自己流なんです。コンサルタントの話なんか聞いたこともない。それよりも目の前に見本があるのだから、私たち2人と同じことをしなさいよ、と」(德二氏)
自分の身はすべて経営に捧げる覚悟で起業に臨め(德二氏)
――德二氏と直美氏が第一線から退いた現在、2人が取り組んでいるのは、NPO法人イエロー・エンジェルである。
「いろいろなエンジェルになりたいからイエロー・エンジェル。カレーから連想したものではありません(笑)。もともと何もないところからスタートしていますから、いまある資産は一時的に預かっているだけで、社会にお返ししなければならない。それで、弱い立場にいる人や一所懸命何かに挑戦している人たちを応援しようと考えて設立しました。2007年3月にはクラシック専用の音楽ホールも完成しましたが、ここでやっていることも昔からやってきたことと同じ。入口ですべてのお客さまをお迎えしていますし、心で拍手していますから」(德二氏)
「パパは53歳で引退でしょ。まだ若いんだから何かしていないとおかしくなりますよ(笑)。それで、私たちがこだわってやってきたことを伝えたいと経営塾も開いています。でもこれも大変。1年間かけて教えても、オーナーとしてオープンしてみないとわからないことがあるからです。中には月に5日も6日も休みをとっていて、売上げが上がらないなんて言っている人もいます。私たちからすれば『何言ってんのよ』と。売上げは自分の身体との交換ですから、休みをとっていたのでは売上げは上がりませんよ。だから、休んでいるうちは連絡するなと言ってあります」(直美氏)
「私たちは商売をはじめてから経営を離れるまで、1人も友人をつくりませんでしたし、映画に行ったこともありません。もちろん夜飲みに行くことなんかもありませんでしたね」(德二氏)
「だって、夜遊んでいたら、次の日仕事ができないじゃないですか。友達を失くすという人もいますが、それよりもたくさんのお客さまに喜んでもらう方がうれしいというのが、私たちの価値観ですから」(直美氏)
そして、こうした価値観に付いてきてくれた役員には「感謝感謝ですよ」と2人は結んでくれた。