Follow us!

Facebook Twitter

INTERVIEW

「月刊食堂」1965年4月号 「若い調理師のために」より

変わるものと変わらぬもの

秋山徳蔵氏(元宮内省大膳職主厨長)
 
一覧へ戻る

私たちの修業時代と様子がちがってきたのは、あたりまえ

 明治36年、16歳の年に、私は華族会館の見習いに入り、3年の修業ののち築地の精養軒につとめた。
 多くの古い人たちがいっているとおり、むかしの修業はじつに激しいものであった。
 野菜のむきものでもしているとする。通りかかった先輩が、手もとをジロリと見る。下を向いていてもカンでわかる。と、案の定、やにわにガンと頭をなぐられる。それでも、だまってむきつづける。今度は足をイヤというほど蹴とばされる。ヨロヨロッと倒れそうになりながらも、左手の野菜も、右手の庖丁もしっかり握って放さない。すると、
「バカヤロウ。こうやるんだ」
と、手をとって教えてくれる。そこで、
「ありがとうございます」
と、ていねいにおじぎをするのである。
 煮物をしている。とたんに、ガンとくらわされる。よろけながらも、鍋にしがみついていると、
「そんなやりかたで何ができるんだ。こうやるんだよ」
と教えてくれる。鍋にしがみつきながら、
「ありがとうございます」
である。
 まことに、乱暴といえば乱暴、だが禅味たっぶりな教育方法である。つまり、自力で悟れというのである。教えてもらうのではなく、先輩の持っているものを引っぱり出せといういきかたである。
 これがつらかったかというと、ちっともつらくなかった。習いたい、覚えたい、上手になりたいという気持ばかりが先に立って、金銭や出世を目標にしていないので、そういう仕打ちにたいしても、いっこう腹が立たないのである。いってみれば、人間が相手でなく、技術だけが相手だったのである。技術にたいして頭をさげていたわけであった。
 いまの若い人たちは、まるっきり様子がちがう。ひっぱたくどころか、――それはやりかたがちがうよ――と注意したぐらいで、プンとむこうへいってしまうものもいる。そんなのは極端な例だが、おしなべて、腕を上げたいという熱意よりも、この仕事で収入を得るという意識のほうがはるかに強いから、どうしても腕のほうは二の次にならぎるをえない。
 それは、一面やむをえないことである。いまの人は、生活というものを非常に大切に考える。食って、生きていくばかりでなく、生活を楽しむということを重視する。いきおい、経済第一にならざるをえないわけだ。このことは、あながちわるくばかりはいえないことである。それに、基本的人権というものが尊重されるようになった。当然のことだし、喜ばしいことだ。だから、私たちの修業時代と様子がちがってきたのは、あたりまえのことといっていい。つまり、時代が変わったのだ。

変わりなく大切なことは自分の仕事にたいする真剣さ

 いったい、ものごとには、時代によって変わるものと、変わらぬものがある。社会制度・生活形態などは〈変わる〉ものであり、人情・人倫の基本というようなものは、どんな時代になっても〈変わらぬ〉ものである。
 コックの修業のしかたについても、おなじことがいえる。変わる要素と、変わらぬ要素があるのだ。
 いわゆる《理論》や《技術》は、むかし15年かかって修業したことを、いまでは4,5年で覚えてしまわなければならない。人工衛星がいくつも地球のまわりをまわっており、欧州まで1日で飛んでいけるという時代に、むかしのやりかたを踏襲しようというのは、するほうもさせるほうも愚の骨頂だ。むかしの修業のムダな部分を省けば、4,5年でじゅうぶんやれるのだ。
 しかし、料理人としてもっとも芸術的な要素である《センス》の修業となると、これはほとんど変わらぬものだといってよい。やはり多くの経験の積みかさねが必要だ。そして、こればかりは、教えられたり教えたりできるものではなく、その人の天分と努力によって、みずから会得し、あるいはつくりあげるべきものである。それだけに、これとても――何年何十年とやらなければ――などと、むかしのような考えかたをしてはならないものと思う。
 要するに、時代が変わったのだ。だが、時代が変われば、また何か新しいものが生まれてくる。料理の味というものは、万代不易こうなくてはならぬというものではない。これもひとつの芸術であるから、その時の材料で、その時にもっともうまいと考えるものをつくればよいのである。おなじ畑からとれたダイコンでも、 一本一本味がちがうのである。日の当たりかげん、土質の相違、育ちかげん、抜いてからの時間など、いろいろな原因で微妙なちがいができてくる。その一本一本の特質を見きわめて、それにふさわしい煮かたをし、味つけをするのが、料理の極致である。つまるところ、うまければよいのだ。
 だから、新しい時代感覚の転換期がやってくると、そこに新しい味覚の標準ができてくるはずである。
 絵にしても、ミヶランジェロに最高の美を感じた時代もあれば、セザンヌやゴッホが風靡した時代もある。マチス、ピカソの時代もある。いいものはいつまでも残るけれども、味わいかたの標準はずいぶん変わってくる。
 それでいいのであって、むかしのことをとやかくいっても、はじまるものではない。料理もおなじだ。
 しかし、私は、声を大にしていいたい。
〈自分の仕事にたいする真剣さ〉……こればかりは、どんな世の中になっても、変わりなく大切なことであって、それがまた、食って生きていくのにも、生活を楽しむうえにも、ぜひ必要なことなのである――と。