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INTERVIEW

1982年 月刊専門料理7月号 「胎動し始めたイタリア料理界」より

迎合せず、料理に対して頑固に

吉川敏明氏(カピトリーノ 元店主)
 
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自分で勉強したとしても手持ちの料理だけでは長く続けられない

 イタリアヘ行きましたのが、ちょうど東京オリンピックのあと、1965年です。19歳でした。ローマのエナルクに入学したんですが、日本人では初めてだったようです。
 エナルクでの勉強は1年半という短い期間でしたが、先生の動作をこと細かく観察し、忠実に真似をすることにより、早く覚えるこつをのみこみました。そして、自分が納得いくまで、いやというほど質問したことで、いろいろと修得できましたし、言葉も早く覚えることができたんです。
 卒業後はヒルトンホテル、次に会員制スポーツクラブ兼用の小さなホテルのチーフになりました。客は食事にうるさい人ばかりでしたので、メニューは毎日替えたんです。ところがそのうちネタがつきましてね。これではいけないと思って、エナルクにもどったんですよ。でもこのことはとてもいい経験になりました。
 自分が学校で勉強したとしても、手持ちの料理だけでは長く続けられない、いつも勉強をして、メニューをふくらませていかなくてはいけないんだということがわかったからです。帰国後はイタリアから本を取り寄せ、実際に作り、自分なりに手直しして、レパートリーをふやすよう常に研究する姿勢でおります。

 イタリアに四年近くいて帰国し、一年後にカーザ・ピッコラ(現在はない)オープンと同時に調理長として勤めました。イタリア料理店といえば、六本本のキャンティとアントニオ、銀座のベルベデーレ(現在サバティーニ・ディ・フィレンツェ)ぐらいでしたからね。
 当時はスパゲッティ、ピッツァが中心でしたが、迎合しないで、自分が習ってきた料理を、イタリアに近い形で供しました。材料も特にスパイスのフレッシュが必要な料理の場合は、手に入るまで作りませんでした。たとえばスパゲッティのバジリコ。バジリコの替わりに大葉を使っている所があったようで、客になぜ出さないのかって聞かれたんです。風味も違う代用品は使いたくなかったので、お客になぜ出さないのかをバジリコの話をしながら、根気よくしたものです。
 トマトソースも″おたくのトマトケチャップ甘くないね″といわれたんですよ。今になってみれば笑い話ですが。ですから料理に対してはあくまでも頑固に、お客に対しては根気よく――でしたね。
 オーナーともケンカをよくしました。この料理を出すのは早いと言われたりして。でも出してみなきゃわからない。売れなかったら私が責任を持つとまで言いきったことが、多々ありました。
 最近イタリアから帰国し、レストランに勤めた人が、オーナーが思うようにさせてくれないという。自信があるのなら、ケンカをしてでもどうしてもやらせてくれっていうだけの元気がほしいと思います……

気軽に楽しめる店ができれば、イタリア料理はもっと身近なものになる

 現在は麻布で独立をして5年めになりました。ようやくお客も代表的なイタリア料理とはどんなものか、わかってきてくれたようです。
 人という面では、イタリアで修業してきた若い人や、これからイタリア料理を勉強したいという人が東京に集まってきており、この状態はまだまだ続くと思います。この人たちが力をつけて、やがて地方に行き、イタリア料理を広げるには、まだこれから10年はかかるんじゃないでしょうか。
 先日、ある地方のイタリア料理店の方が、お客はスパゲッティをゆでる時間を待ってくれないという話をなさったんです。東京では待つことは当り前で、逆に早く供すると、残り物じゃないかなと思われてしまう。
 この差がいかにちぢまるかで、これからのイタリア料理界の動きが変わると思います。
 イタリア料理店ができるのはよいのですが、最近の傾向として、価格が高くなりつつある。これが心配ですね。気軽にワインや料理をわいわいやりながら楽しめる店がどんどんできてくれば、イタリア料理がもっと身近かなものになるでしょう。
 今後はイタリア料理に携わる人々で情報交換の場を作ったり、技術面でのお互いの向上を図るなどして、イタリア料理を盛り上げていきたいと思っております。