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INTERVIEW

「月刊食堂」1962年3月号「若い料理人のために」より

天に貯金しておけ

田村平治氏(つきぢ田村 創業者)
 
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店を持ちたい人への一言

 家が福井県小浜で魚問屋をやっていた関係から、取引先の京都「瓢樹」へ修業に行ったらというわけで、この道にはいったのが十六歳のときだった。
 体は弱く、はじめは大した気持でもなかったのだが、主人の西村卯三郎氏に鍛えられ、また、当時の組合長などから「食べもの商売は絶対すたれることがない。人間の手近な楽しみというのは食べることにあるのだ」というような話を聞かされ、本格的に修業しようという気になかった。
 瓢樹はお茶料理屋でほとんど出張料理が多かった。
 それに主人の西村氏が相当顔も広く、京都での財界人の集会などはここを使っていた。こんな料理を一年間も続けるとすべての料理はだいたい覚えるものだ。
 昔のことだから教えてはくれなかったから自分から会得するよう心掛けた。
 ここで二十二歳まで修業したわけだが、つらいことも多々あった。
 体が弱かったということ、それに体質的に手の皮膚が薄く、ちょっと熱いものでも冷たいものでも人より以上に敏感に感ずるほうで、冬などはそうとう苦労した。手がかじかんで動かなくなることもしばしばあった。
 しかし、ほめられたこともあった。出張料理が多かったために器具の持出しは頻繁だった。しかし器具を一度も忘れて帰ってきたことがなかったのだ。
 料理は茶道と同じで、食べる人にとってはどんな食べ方をしてもいいが、作る側からすれば、法則をまげてはいけないということ、同じものが二つ重なってはいけないということが今でも変らない信念である。
 ふぐ料理を習うために一年間大阪へ修業にでた。当時「水琴亭」を経営している伯父に「お前も一つ束京あたりへ行って腕を磨いてきたらどうか」といわれ、二、三カ月のつもりで東京へでてきたのがとうとう本腰をすえることになった。
 「藍亭」という料理屋へ勤めること十三年、ここでの修業が一番長かった。
 この一カ所で長く修業したということが後になって大変役にたった。
 若い時は転々としてもいいが、いつまでもそんなことを続けていてはいけない。ここだと思った所があったらじっくり修業することだ。それと良い先輩を得ること、先輩を批判するのでなく、言うことをよく聞くことだ。
 もう一つ、自分の「分」を知ることだ。高級でも中級でも普通でもいい、それぞれの「分」に応じて徹底すれはよい。

修業とは自分を作ることだ

 藍亭の勤めを終えた頃、当時ヒゲタ醤油の社長、現在第一生命社長の浜口氏に多大なる恩恵を受けて、昭和二十一年にこの店を開くことができた。
 店を持つためには常日頃の心掛けが大切だ。月給を貯めただけでは商売はできない。特に仕入先の魚屋、野菜屋などから買ってやっているのだというような考えを持ってはいけない。店の客に差別をつけてはいけないことだ。それに責任感のない人には店は持てない。  その昔星ケ岡茶寮の中村氏が「天に貯金しておけ」とよく言っておられたが、月給でとやかくいうようでは店は持てない。天に貯金しておけば必ずいつか帰ってくる。
 私は今でもそれを信じているし、また、その気持であれば必ず人が認めてくれるし、お店をだすチャンスもあるものだ。
 そして「世の中には少しは尽くすべきだ」という考えを持つことだ。
 若い修業中の料理人に言いたいことは権利ばかりを主張しないで同時に義務も遂行せよということだ。自分の時間だからといって遊んでいるようでは駄目だ。たえず勉強して、料理だけでなく、もっと他の面での教養を深めて頂きたい。上の人も愛情を持って後輩を引っ張ってやらねばいけない。
 しかし、この頃感心なことは、昔は「何もできないから料理人にでもなろうか」という気持でこの道にはいった人が多かったが、「料理人になろう」とはじめから真剣に考えて入ってくる人が多いから将来がむしろ期待できる。