Follow us!

Facebook Twitter

INTERVIEW

月刊食堂2008年3・4月号「私の創業記」より

誰も損せず、皆が喜ぶ商売

石井誠二氏(居酒屋「つぼ八」 創業者)
 
一覧へ戻る

そういう商売のありようを僕は“行商”から学んだ

――いま振り返ると四半世紀以上前のことになるが、外食業界にすさまじい居酒屋ブームが吹き荒れた。その牽引車となったのが、北海道生まれの居酒屋チェーン「つば八」だった。
 創業者の石井誠二氏は紆余曲折を経て、現在は㈱八百八町の代表を務める(取材当時)。石井氏は“居酒屋業界の旋風児”と称されるが、もし彼の存在がなかったら、日本の外食市場に居酒屋という業態がこれほど定着することはなかっただろう。

 東京生まれの僕が北海道に渡ったのは21歳の時。当時の僕は悪さばかりしていて、このままだと前科が付いちゃうという頃、友人の兄貴である北大生に叱られたんですよ。「お前らこのままじゃろくなことにならん。ちゃんとせい」と、クラーク博士の話をしてくれた。それで北海道に行ってみようと思い立ったんです。だって、どこに行くあてもないし、何をしたらいいのかわからないからワルをやっていたわけですから。だったら北海道でいちからやり直してみようと。
 もちろん、何をするかなんか決めていませんでしたが、行けば何とかなるということで、すぐに姉のところに駆け込んで、行きの運賃ぶんだけ金を借りた。姉の家も楽だったわけではないけれど、これで厄介払いができるならと出してくれたんでしょうね。何しろ身元引受人として迷惑をかける一方でしたから(苦笑)。

――石井氏が北海道に渡ったのは1963年。その北海道行きの列車の中で、石井氏が商売の道に入る出会いがあった。旭川を根城に全道を商って回る行商に声をかけられ、荷物担ぎとして手伝うことになったのである。

 振り返ると、行商は情報産業の最たるものだったと思います。いまのように何でも買える店が近くにあったわけではないし、お金になる収穫も年に1度きり。行商はそういうところに定期的に通っているわけですが、そこのお得意さまの個人情報はすべて把握しているんですよ。
 生年月日はもちろんのこと、何が趣味でどういうものが好みなのかすべてを把握している。そして、お得意さまを訪間する時には、その人その人に合わせてきっちり品揃えしてから訪ねるわけです。まだ十分にモノの揃わない時代に、生活必需品と個人的な趣味。嗜好に合うものを持ってきてくれるわけですから、当然買ってくれる。
 僕はよく「買い場発想。売り場発想」という言い方をするけれども、商売はモノを売ろうとするのではなく、買う方が欲しいと思うモノを揃えることが大切なんですよ。それを学んだのが行商の商いだったんです。
 もうひとつ学んだのは、買った人に得したなと思わせること。行商はモノを売ったら、そのお金ですぐに仕入れをするんです。たとえば干しシイタケとか農家が蓄えていた産品をその場で買い付けるんです。農家の側にすれば、支払ったお金がすぐに戻ってくるわけですから得した気分になる。
 一方、行商にしても地方の農家で仕入れたものを札幌とか街中で売ればいい商売になるし、街の人も市場では売っていないものが手に入るわけだから喜ぶ。誰も損していないし、皆が喜ぶ。僕は商売の基本をすべて行商の仕事から学んだんです。

――とはいえ、まだまだ若い盛りである。田舎を回る日々に飽きた石井氏は、すすきのに近いアパートを借りて、工員やバーテンなどいくつかの職を転々とした後、養鶏場の従業員となる。25歳から30歳までの約5年間勤務し、最終的には役員にまでなったというから、よほど水が合ったのだろう。
しかし、1972年に養鶏場は解散の憂き目に遭う。
 では今後何で食べていくのかと考えた時、はたと浮かんだのが飲食店であった。鶏肉を使った料理は自家薬籠中の物だったし、調理場に直接納品していたから、調理の過程もつぶさに見ており、焼とり店では300円で仕入れた鶏肉が最終的には総額2000円になるというマジックも承知していた。何より、売れ残りを食べれば食いっぱぐれがないというのが魅力だった。

 それで札幌・琴似のパチンコ屋の2階に開いたのがつぼ八。そこは飲食店が何軒も軒を連ねていたけれど、僕が借りたのはドンツキのトイレ脇にあったもと倉庫。お金がなかったから床にマジックで直接図面を書いて、知り合いの大工と2人でつくりました。
 投資額は約80万円。もちろん大工に支払う金額には足りなかったけど、後払いでいいと言ってもらったので、毎月売上げから返していくことになった。集金に来てもらった時には、好きなだけ飲み食いしてもらいましたね。
 これは仕入れ先に対しても同じ。たとえばホッケならカウンターのお客の顔が見えなくなるまで陳列台に積み上げていましたから、仕入れ量も半端じゃない。そうすると、彼らも店を見に来るわけですよ。そういう時にバンバン飲み食いしてもらっていい気持ちになってもらう。すると、ああこの店はこれだけ売る力があるんだな、だったら大量に買ってもらうぶん安くしてやろう、と。これで万万歳でしょ。

――店名の由来である8坪の店内の真ん中につくったのは21席の八角カウンター。そこに焼き台と食材の陳列台を配し、空きのできたコーナーにはレンガで暖炉を設けた。後のつぼ八の店舗デザインがすべて凝縮されていたこの1号店の開業は1973年3月。当初は集客にも苦労したが、1合と謳った酒はきっちり正1合で提供するなどの正直な姿勢、お客の目の前にある食材を目の前の焼き台で調理して提供するというスタイルが支持され、すぐに日商10万円近くを売り上げる繁盛店となる。
 そして売上げがさらに爆発したのは、同年10月のオイルショック以降である。

 17時の開店前からお客が並ぶようになったんですよ。それで16時に早めたんだけど、それでも並ぶ。売上げもそれまで1日10万円売れるかどうかだったのに、20万円、30万円と伸びていった。そうすると毎日来ていたお客さんの中から、500万円でこの店を売ってくれないかという話が出てきた。
 ちょうどその頃、近くに1・2階合わせて40坪ほどの物件を安く借すからもう1店やらないかという話も来ていた。それで最初の店を売って移転したのですが、ここも月商で2000万円は売れましたね。
 毎日仕込みの後に食事をしながら従業員に1日の方針などを伝えていたのですが、その時に次の目標を掲げて奮い立たせようと考えたんです。琴似はもういい、次は札幌の中心部に出ようじゃないか、と。最初は何言ってるんだという顔をしていましたが、10日間ぐらい言い続けていたら次第に目の色が変わってきた。ぐんぐんやる気になっていったんですよ。

「人生をこうしたい」という想いを発信し続ければ、答えは周りから集まってくる

――つぼ八の通算4号店は、創業から4年目の1977年、三越や丸井今井などの百貨店が建ち並ぶ札幌の繁華街の一画で営業を開始した。
 2フロアで約80坪。奇しくも創業店の10倍の規模での中心部進出となったが、この店も爆発的にヒットした。2000円を切る客単価で、月商2500万~3000万円を売っていたというのだから、ひと晩で平均400~500人のお客を集めていた計算になる。
 これほどの繁盛店は北の大歓楽街であるすすきのにもなく、つぼ八の名は札幌中に轟き渡った。
 こうなると石井氏も本気で多店化を考えるようになる。

 それで会社のルールを定めるとともに、銀行の指導のもとに10年間の長期経営計画をつくったんです。10年間で直営、FC、そしてわれわれがダイレクトFCと呼んでいる社員独立という3つの柱で50店を出店し、道内ナンバーワンのチェーンにしよう、と。
 会社の経営理念もこの時初めてつくりました。一応法人にはなっていたけれど、そういうことはまったく考えていなかったんです。本屋に飛び込んで、参考になる本を片っ端から読んでわかったのは、自分がこれまでやってきたことや、こうしたいなと考えていたことを言葉にすればいいのだということ。それまではイケイケでやってきたのですが、この時に初めて過去を振り返りました。何で琴似で開いたちっぽけな店が繁盛したのか、と。

――つぼ八が軌道に乗ったきっかけは、オイルショックだった。企業が交際費を縮小したことにより、小遣いで週に1~2回利用できるリーズナブルな店を求めるようになったところに、つぼ八がはまったのだ。
 そうしたポケットマネーで店を使ってくれるお客を石井氏は「大衆」と呼び、「大衆と共に永久に栄えよ」という理念を掲げた。さらに「逃れて生きるよりも戦って生きよ」「己の競争相手は己自身である」という理念も、行商や養鶏業など、自らが歩んできた経験の中から生まれた言葉である。
 ちなみに、この時石井氏がつくった3つの理念は、現在も㈱つぼ八のグループ訓として生き続けている。

 つぼ八で正直な経営とともに重視したのは判断基準。得か損かで判断するのではなく、まず正しいか正しくないかで判断しろと言い続けました。得か損かを判断するのはその後でいい。正しいほうを選べば、自然とよい方向に進んで行くことができます。
 僕自身も正しいほうを選んだ結果、騙されたり裏切られたりもしたけれど、人は付いてきてくれた。だからこそいまがあるのだと思っています。

 ところで、つぼ八がFC1号店をオープンし、チェーンとしての快進撃を開始したのは1978年だが、その名を一気に高めたのは、その翌年の1979年に出店した松岡ビル店である。すすきののど真ん中にオープンした同店は、300坪500席という超ド級のスケール。年商も4億円とケタ違いだったことから、全国規模の注目を集めた。
 外食関係者の視察隊も頻繁に店を訪れたが、北海道名物という意味合いから、他業界の人々にも接待の場として使われたという。
 後に提携する中堅商社の伊藤萬(当時)との接点もここで生まれた。FC1号店のオーナーが伊藤萬役員の接待を松岡ビル店で開いていたのである。

 何で提携することになったのかと言うと、新卒が入る会社にしたかったんです。当時は中途入社ばかりで、全然新卒が入らなかったんですよ。何とか入社してもらいたいと、店に来る学校の先生や父兄を訪ねたのですが、「飲み屋に子供はやれない」と断られた。
 北海道では北海道拓殖銀行が特別な存在で、「さん」付けで呼ばれていたんです。その拓銀さんがメインバンクになったら道内では一流企業と言われる存在になるのですが、われわれも松岡ビル店の成功で、拓銀がメインバンクになってくれた。オープンの時に拓銀から夜間金庫用のナイトバッグを5つ借りたのですが、毎晩それがパンパンになっていたから、支店長直々につぼ八のメインバンクになると言ってくれたんです。
 だから、企業としては一流として認められたのに、飲み屋だからと学生の斡旋が断られるのは、業界そのものが認められていないんだ、ということにその時気が付いたんです。
 だったら、認められるために株式を公開しよう、そのためには東京に出るしかないと考えるようになった。そこにFC1号店のオーナーを通じて伊藤萬側から話があり、つぼ八東京本社を設立することになったのです。
 この時もそうだったのですが、大切なのは、「人生をこうしたい」という自分の想いを発信し続けること。それを続けていると、答えは周りから集まってくるんです。もちろん、社会的に正しい方向を向いていることが大前提になりますけどね。