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INTERVIEW

月刊食堂1990年12月号「たべものやの証人たち」より

もっと素直に柔軟な発想で〝麩〟を捉える

小堀正次氏(生麩 麩嘉〈京都・西洞院通〉 主人)
 
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もっと大きい意味で食としてのポリシーを持っていないと、次代の子供たちに食べてもらえない

 生麩作りの老舗「麩嘉」の創業年は、正確には不明。幕末の動乱期に一帯が火災に遭い、それ以前の経緯を示す資料類がいっさい、焼失してしまったからである。それでもながく京都御所の御用達をつとめ、その門鑑は残っていて慶応年間と刻んであった。そこで、そこから下って代を数え、小堀氏は六代目になる。
 麩の由来についてはいまだ諸説あるが、少なくとも江戸時代に入って以降、京都の生麩は最上とされてきた。麩を商う家が集まって、麩屋町という地名も興った。淡白極まる素材である麩は、京都の洗練された食文化のなかにあってこそ発展したといえるが、戦後、折の文化の衰退とともに、その重要の様子は大きく変わっている。そんななかで小堀氏は、むやみに「伝統」にすがりつくことを嫌い、時代の変化、嗜好の変化にも柔軟に対応できる生麩の商品化をめざす。生麩作りへの透徹した歴史解釈と執念とがなせるわざである。

昔は麩だけじゃなくて湯葉もこんにゃくもまとめて商っていたらしい

 もともと麩というのは、鎌倉時代の終わり頃に中国から伝わったといわれているんですけど、資料としてはっきり残っているのは、桃山時代の終わりの頃です。千利休が百会の茶事を催したときに、麩の焼というお菓子を取り上げているんですね。まあ実際は百回でなく七十何回でしたけど、ずっと麩の焼が菓子になっている。汁の中にも麩が何点か出てきます。たぶんそれまでは、お寺のもの、ごく一部でしか使われていなかった素材としての麩が、利休が取り上げたことによって少しグレードが上がって、それで一挙に市場に出てきた。麩屋もたくさんできた、ということだと思うんです。
 その麩の焼がどんなものだったのか、はっきりとは分かりませんけど、どうも生麩の上に味噌をつけてくるっと巻いて焼いたものらしい。京都に味噌松風というお菓子があるでしょ。麩の中に味噌をまぶして焼くと、味噌松風になるんです。ですから、たぶんその時点で、麩屋の技術から菓子屋の技術に移行していったんじゃないか、という仮説を持っているんです。いま麩屋町と呼ばれている通りも、この時代に白山通りから変わっている。ということは、当時はかなりたくさんの麩屋があったんじゃないか、と推測できるわけです。
 それと、この辺りは昔の楽市楽座の発祥地なんですね。で、この辺の店は麩屋もこんにゃく屋も、京都御所の御用達だったんです。ところが、御所の鑑札を見ると、麩だけじゃなくて、こんにゃくとか湯葉とかも入っているんですね。それにお寺なんかの得意先も多かったらしいし、結局、麩だけじゃなくて湯葉もこんにゃくもまとめて、ということで、全部作ったのかどうかは別にして、そういう商いをしていたらしいんです。そしてその中から、自分の店にいちばん合うものを残して、麩一本になった、と。ただ、この辺一帯は幕末の蛤御門の変で全部焼けてましてね。それ以前の資料は全部、消失しているんです。それで、いま残っている御所の門鑑に慶応とあるんで一応、慶応年間を創業ということにしています。
 うちみたいな商売は、世の中の流れによってずいぶん変わっていくんです。皆さんよく、江戸時代の素材としての麩がそのまま伝わってるんじゃないかと錯覚されますけど、そうじゃない。やはり昭和は昭和の、平成は平成の麩になっているんです。(中略)

――小堀氏は昭和一五年生まれ、五〇歳(1990年当時)。慶応の創業時から数えて六代目主人である。先代は三〇年前(1960年頃)に、京生麩の由来の考証やおいしい食べ方を『京生麩』という本にまとめ、京都ならではの伝統素材である「麩」の来歴を明らかにしたが、小堀氏は伝統の技術を継承するにとどまらず、麩屋の新時代の行き方を積極的に模索している。その試みのひとつが、二年前(1988年)、アメリカのニューヨーク・タイムズに出した広告である。上質の植物たんぱくである麩への関心は、アメリカでもベジタリアンを中心に高まってきているらしいが、やはり麩は「麩」として伝わってくれないと困る。そこであらかじめ麩への正しい理解のための布石を打ったわけである。数年前からは店にもアメリカ人青年の見習いを受け入れ、アメリカでの製造をも視野に入れているという。伝統文化の既成概念に縛られない卓見である。

日本中で同じ小麦粉を使う今、それをどうやって自分流にするのか

 麩というのは、ベースは小麦のグルテン。生地は同じなんだけれども、そこによもぎが入ったり、栗が入ったり、シナモンが入ったりと、あるいはあんを包んだりと、そうやっていろいろと形が変わっていくだけなんです。そういう意味では、種類は何百とありますよ。まあ、いま毎日作っているのは大体、四〇種類ぐらいですけどね。季節によっても違ってくるし、正月前なんかはもっと多くなります。
 原料の小麦ですか。昔は麩用に特別に挽いてもらったものなんですけど、いまはみんなパン用の小麦粉ですからね。極端にいえば、日本中の麩屋が全部、同じ素材を使ってるということです。他の素材にしたっていまはみなそうでしょうけどね。だからそれを、どうやって自分流にするか、ということなんですね。同じ素材でも、職人さんによって全然違うものになってしまいますから。うちにいちばん合う小麦粉があった昔とまったく同じ作り方ではない、ということもいえるわけです。
 それからいまは、グルテンを取ったあとのデンプンの処理ができなくなりました。私が子供の時分までは、友禅の糊とか表具の糊とかに使われたんですけどね、いまはみな代用の糊でっしゃろ。
 それで、こんなもん作ってるのに人手はいる。私ら夫婦入れて一八人ですからね。利益なんか出てきまへんで。グルテンを取るのは、小麦粉を水で練って水洗いし、また練って洗う。この繰り返しで、そういう作業はいまは、機械があります。ただこういう機械は、明治に入ってからできて以来、ちょっとも進歩しないんですね。というのも、麩は熱を持った途端に香りが飛んじゃうんです。そばでも何でも、石臼でしたらなんでよろしいかというと、熱の発生が少ないからなんです。そのへんが大変むずかしいところですね。でも、たとえば昔のからくり人形みたいに、ギアから何から全部木でできてれば熱の発生率が小さいから、そういうものができればもっと使いたい思うけど、そんなもんメーカー作らへんしね。それでも機械化しようと思えば、全自動化もできないことはありませんよ。商品としてはどんどんできます。ただ、そうなればもっと大手が必ず目をつけてきます。そうするとどこで競争力をつけるかと、ずーっと堂々めぐりしてまた、こういう商売になってしまうんじゃないでしょうかね。
 まあ、うちらみたいなとこになんか若い人なんて、とても来るはずがない思って諦めてましたけど、最近はぼちぼち入ってくるようになっています。そういうときに、うちらはいわゆる会社みたいなんじゃなくて、番頭やら小番頭やら、丁稚を育成するいう、そういう要素の方があっていいと思うんです。それでたとえば祭りにはこの屏風を出す、提燈はここに収めてあるというような、そういう家の中の行事を通していろんなしきたりとか行儀とかを覚えていくという、そういう魅力をつけてやったらいいと思うんです。

――小堀氏は九年ほど前(1981年頃)、京都新聞に「今日の水」をテーマにした一ページ全面広告も出している。井戸水が京都の食文化を発展させてきたことを強く訴えたものだったが、その背景には、その年、京都市が酒造などを除く食品業者の井戸水使用を禁止したことがあった。生麩の製造には、京都の地下水が絶対に必要なだけに、井戸水の果たす役割の大きさを切々と訴えた。
「いま使っている井戸は六〇メートル掘ってますけど、深い井戸の方がおいしいいうのは錯覚。ほんとは浅い井戸の方がおいしいんです。それ以前に堀った井戸はみな浅井戸でしたけど、枯れてしもうてね」
 昔から伝わってきたノウハウはある。しかしそれ以上に、水の影響は強いのだそうだ。同じように作っていても、生麩の出来は毎日、微妙に違う。その「水の神がかり的な要素」があるからまた、麩作りは面白いのだ、ともいう。

新しい可能性を見出せる食品として麩をとらえたい

 麩は時代で変わるいいましたけど、最近はフランス料理の素材としての麩も作っていますよ。もちろん同じたんぱく質とでんぷんを使うんですけど、時代に応じたテクスチャーとか、そういうものをつくっていかないかんので。試作ですけど、チョコレートムースを入れた麩まんじゅうまでありますから。でも、昔の麩の口伝書なんか見てみますと、でんぷんの配合とかいろいろ、いまとはずいぶん違います。むしろ当時の方がかなり勉強していましたね。たとえば、いまの人はセメントに砂を入れたのがコンクリートという頭しかないけど、昔の人は、ガラスを放り込んでもコンクリートや、という発想があった。もっと頭が柔軟だったんですね。それに昔は、料理屋さんの方からこういう麩をできないか、というような注文があって、それをこなしていきながら、その中からいまの麩が残ってきたものなんです。けど、いまの料理屋さんは、こっちから出さないと知らなかったりしてね。だけどお客さんも分からへんからそれでもいいゆうことになるのかもしれませんけど。それでも、そういう働きかけはずっとやってきていますけど、なかなか時代によって、昔のやり方が合うてこないし、むずかしいですな。
 けど私は、もっとこうしたらいい、ああしたら面白いんじゃないかと発想できる、そういう料理屋さんの人との出会いがほしいなと思いつづけてます。いうたら触媒がほしいんやね。なぜ京都というところで素材が発展してきたかというと、そういうものを見る目とかいろんな感覚が洗練されてきたからです。でもいまの消費者はそういう目を持っていないから、いいものも生まれてこない。それでなおかつ「京」というのを頭にのっけるからおかしなことになると思うんです。もっと自信をもって、べつに京都らしさなんてめざす必要もないし、もっと素直にいまの感覚のものを作っていけばいいんじゃないかと思うんですね。うちらにしても、固定的な考え方をいっぺんばらして、新しい可能性を見いだせる食品として麩をとらえたい。それはやはり、夢として持っていたいですね。