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INTERVIEW

月刊専門料理1998年4月号より

夢を賭けて、フランスに挑む

吉野 建氏(ステラ・マリス〈パリ8区〉 オーナーシェフ)
 
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 フランスで、フランス人を相手にどれだけの勝負ができるか――。フランス料理に志を立てた者なら、多かれ少なかれそんな気持ちを持ったことがあるだろう。しかし、本当に実現させるとなると、その道はよもや平坦ではない。フランスで修業し、そのまま現地でシェフヘの道を追求していくというのも大変なことだが、日本で仕事の基盤を築いた者が、あらためてフランスに挑むとなれば、さらにそれ以上の気力とエネルギー、強運が必要だ。
 それゆえ、四〇歳を目前に、吉野建氏が自らの新しい展開を求めてフランスに渡った時、周りはその大胆さに驚いたのだ。

フランスへの思いを温め続けて

 吉野氏が、五年間のフランス修業を経て、日本に帰ったのは、三二歳の時。赤坂の「光亭」で初めてシェフに就き、「ロ・ア・ラ・ブッシュ」(東京・青山)に移っては、グランドメゾンを舞台に自らの個性を存分に表現した。そして、小田原で独立。今度は都会から一歩離れ、今までとは違った視点で料理を見つめ直す。海という新しいテーマも得て、あらためて料理に熱中していった。
 おしなべて順調だった。何と言っても、充分に楽しんで仕事をしていた。普通なら、この期に及んでフランスに渡って店をやろうなどとは思わないだろう。かの地を離れてすでに七年、気に入った自分の店を持ち、顧客もついている。名前も通り、マスコミにも高く評価されている。それを捨てて、ゼロから出発できるものだろうか。
 しかし、その時々の仕事に充実感を感じる一方、「今、フランスにいたらどれくらいの結果を出せるだろうか」という気持ちがいつも頭の片隅にあった。常に何かに挑戦せずにいられないのは、性分なのだろうか。とある企業からパリに開くレストランのシェフにと要請された時、彼はオープンして二年半の店を手放し、新天地を求めたのである。
 そして、いよいよパリに自分の店を開いたのが、一九九七年の四月。再渡仏して五年。ただ、その間は順風満帆ではなかった。例のレストランは六〇人も従業員を抱える豪華な店だったが、なかなかオープンできず、その間の丸二年は、企業からの要請でとりあえずタイユヴァンヘ。シェフになるはずが、一八歳の青年たちに混じって朝の七時から夜中の一二時まで勤める生活。プライドが傷つかぬはずはないが、志のためにこれを黙々と乗り切った。だが、やっとオープンした店も最初の話通りには展開していかない。結局は縁が切れ、八ヵ月ばかりの浪人時代も過ごした。

「ブランクはやはりつらかった。いったい自分は何しにきたのかなと。でも逆に、こうなったら思い通りの仕事をするまでは帰れないという気になりました」

 肝を据えて、美智子夫人とともに店づくりに奔走し、資金の問題、権利の問題など、独立に向けてさまざまなハードルを越えてきた。やっとのことでオープンにこぎつけた「ステラ・マリス」は、シャンゼリゼから一歩入った一等地、星を目指すに不足でない洗練されたレストランだ。

「立ち上がりはかなり慎重でした。自分が受け入れられれば、自然にやりたい方向へと上がっていくからと、料理も値段もワインも万事控え目からのスタートです。そして実際に店が動き始めてから、こうありたいという形をひとつずつ作ってきたという感じです」

自分の個性を直視すること

 日本とフランスでは、料理をする上で、どんな意識の違いがあるのだろう。

「日本では、自分がどうこうという前に、お客さんのために全力を尽くしていたように思います。相手が望むことにどう応えるか、どうやったら喜んでもらえるかという思いがベースにあった。でも、今はそれよりも先に、自分の個性をどう表現するかがある。相手に合わせるより前に、自分はこうなんだ、こういう人間で、こういう料理が作りたいんだ、ということを伝えなくてはと思うんです」

 それはまさに、よく言われるところの、両国の文化の差であろう。日本では、相手を思いやることで互いの気持ちが通じ合う。だがフランスでは、個性のない人間は認められない。互いに個性を主張し合うことで初めて理解が生まれる……。
 もっとも、当初から“個性で勝負”と思い切れていたわけではない。先にもあったように、はじめは慎重なスタート。料理内容も、誰もがおいしいと言ってくれるような、手堅いところから始めていた。だが、初めて雑誌に載った批評が、彼の腹をくくらせた。
 それは少々哲学的な表現で“空気みたいな料理”と評してあった。おいしいけれど、さーっと通りすぎていって個性がない、という意味だろう。しかし、さらにショックだったのは“異国からきた蝶々夫人”という表現。日本人といえば、相変わらずそのイメージでしかないのか……淋しい思いの反面、自己主張なくして一個の個性としては見てもらえない、評価されない、ということに強烈に気がついたのだ。

「それからですね、フランスでやるなら“吉野という個性のある料理を作ること”だと思うようになったのは。自分はこういう背景を持ったこんな人間で、こういうことがしたい、という料理を、積極的に表現していくようになりました」

 そもそもフランス人にとって、どうして日本人がわざわざフランスに来てフランス料理をするのか自体が不思議なのである。一体この男は何をしようとしているのか、と。無難なことだけしていては、自分の思いは伝わらない。人に理解を求めるのなら、自分を表現すること、それにはまず自分とは何であるかに直面すること……、それが結論だった。

「僕は日本人。自分がアジアであることを、直視しているつもりです。だから自分の発想の中にある東洋を否定しません。フランス料理の王道をはずすつもりはありませんが、フランスにはない味や触感や香りも、自分がいいと思えば出していきたい。たとえばドリアンのアイスクリームを出しているんですが、半分の人はおいしいと言い、残りの半分はクセがあって駄目なんです。でもそれでいいんじゃないかと思う。それが僕なんだから。今は、そんな風に開き直っています」

(中略)

「ただし、ベースにある考え方は変わりません。基本は、素材の魅力を一〇〇パーセント伝える料理ということ。その原点は、素材の見極めであり、シンプルで厳密な火入れということになります」

 彼は、そのベースを日本で学んだという。もし、フランスでずっと修業し、そのまま店を開いていたとしたら、見えなかったものがたくさんあるのでは、と。

「僕は日本に育てられたと思う。だいたい、日本人のほうが舌にはうるさいですから。フランス人が、個性があるかないかのトータルな見方をするのと対照的に、魚の火入れがあまいとか、塩気が足りないとか強いとか、ディテールを詰めてくる。普通の人で、素材に対して相当知識を持っていたり、世界中の旨いものを食べ歩いている方だって、珍しくありません。そういう意味で気が抜けないんです。また幸運なことに、いろいろなタイプの店でさまざまな経験をしましたし。光亭では小さなレストランならではの料理や雰囲気づくりを、ロ・ア・ラ・ブッシュでは思いきりのフランス料理とフォーマルなバンケットを体験しました。この頃は“肉料理がフレンチの醍醐味”という感じでしたね。私自身も得意にしていましたが、小田原にステラ・マリスを開いてからは、今度は海や野菜にも目が開かれた。魚介や野菜への探求を通して、素材の見極めやその生かし方を改めて見直したように思います。それぞれが今の財産です」

日本で得た糧で、フランスに挑む

「日本で仕事をしたから勉強させられた」と、彼は断言する。フランスびいきの人にありがちな「日本の素材は味がない」「日本のお客さんはわかってくれない」などというボヤキはまったくない。それぞれに個性があり、それぞれに向き合っていきたいとするインターナショナル派。その上でなおかつ、フランスでの勝負にこだわるのが、彼なのだ。

「ここで骨を埋めようという気はないんです。一〇年後には日本に帰っているんじゃないかな。本当の真剣勝負がしたいから、細く長くとは考えていません。今はとにかくやれるだけのことをやってみたい」(後略)……

※16年間続いた「ステラ マリス パリ」は、2013年7月31日に閉店。吉野建氏は、しばらく日本を拠点とし、世界にも目を向けて活動予定とのこと。なお吉野氏は、2010年にフランス政府より「フランス農事功労章~シュバリエ~」を受章している。