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INTERVIEW

月刊食堂1990年1月号「たべものやの証人たち」より

馬肉が高くなっても満足感は提供したい

中江隆一氏(さくら肉料理 中江 主人)
 
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馬肉が高くなったから一人前の量を減らすんじゃ気がすまない。古いけど、それが僕のやり方

 まだ遊廓のさかんであった頃、浅草・観音裏から千束通りを抜けて吉原土手にさしかかると、さくら鍋屋がずらりと軒を並べていたという。が、昭和ニ〇年の戦災を堺に、下町に灯を連ねたさくら鍋屋は散り散りとなり、あるいは廃業し、「中江」ただ一軒が孤塁を守ることとなった。
 創業は明治三八年。初代は「中江」を商うかたわら何くれと同業者の面倒を見て、吉原土手の馬肉屋の賑わいの土台を築いた人といわれる。中江氏は、その三代目だが、次第に馬が姿を消し、馬肉を扱う店、業社ともに激減するという向かい風をまともに食らう時代に突き当たった。が、そこはさすがに下町っ子気質といおうか。暖簾の表ではさり気なく、しかし座敷の裏ではいかにして伝統の東京の味を守り、若い世代にも知らしめていくか、その努力を怠らない。
 店舗は大正一四年の建築。下足番の半鑣ともども、昔の下町のたべものや情緒がそのまま残る。

さくら鍋といえば吉原土手、馬肉屋がずらりと並んでいました

 昔はうちの前の通りが吉原土手で、いまでも土手通りとはいってますけど、もっと狭い道だったそうです。それが関東大震災で焼けたのを機会に道幅を広げて、いまのうちの建物はそのときに建てたものなんです。ですから、大正まではもっと広かったんじゃないでしょうか。それから戦前まで、この通りの両側に一五、六軒、馬肉屋がずらりと並んでいたんです。僕は戦前はまだ子供でしたし、住まいは別の場所にあったので、父や年輩の方から聞いた話なんですが、昔は吉原で遊ぶお客が夕方五時頃から入りはじめて、朝帰りの人も多かったから、お客さえいれば朝の六時、七時頃まで店を開けていたそうです。休みは正月の一日だけ、あとは年中無休です。それが、昭和二〇年の戦災でみんな焼けちゃいまして、うちと隣と裏とほんの何軒かだけ運よく焼け残ったんですね。戦後は店が残っていたものですから外食券の雑炊食堂で食いつないで、二四年からまた馬が扱えるようになって、父が二代目としてさくら鍋屋を引き継いだわけです。でも、他の馬肉屋はみんなやめちゃったり、ばらばらになっちゃいまして、うちだけが戦前のまま営業しているわけ。ちょっと寂しいですけどね。
 創業は明治三八年です。祖父が上野の黒門町の肉屋で修業して馬を覚えて、それでこっちへ出てきたということです。で、戦前までは鍋だけでした。馬刺はなかった。馬刺を出すようになったのは戦後のことです。それと、戦前は女の人はさくら鍋はほとんど食べなかったそうですね。結局、こういうところに食べに来るというのは吉原の行き帰りの男だったし、それに、男上位の世の中でしたから、女の人には栄養のあるものなんか食べさせてやらない、というような風潮があったからだと聞いています。
 ただ、馬肉というのは昔は、大変安価な肉で、豚肉よりも牛肉よりもずっと安かったんです。魚のシャケと同じくらい安かった。それでこの下町では、おかずがなければシャケかケトバシで飯食っとけっていったものなんだそうですよ。ケトバシというのは、馬肉のことです。さくら肉ともいうわけですけど、このさくら肉という呼び名の元が何なのか、いろいろな説があるようですね。でも、「咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る」からきたというのが有力のようです。さくら肉だからさくら鍋といい、馬ってのは蹴飛ばすからケトバシ屋って呼んだりもしたんです。それから昔は、イノシイなんかを売るモモンジ屋と同じように、半丸のままの、まだ切り分けていない半頭分の肉を玄関の軒下に逆さまに引っかけておいて、お客に見せていました。冷蔵庫なんてそんなになかった時代ですからね。お客はその肉を見て店に上がったそうですよ。
 このへんは浅草の観音裏の続きでしょう。だから、お酉さまのときは大変な混みようでした。ふつうの馬だと、半丸で大体六〇キロ、使える部分が取れるんですが、昔はふだんでもこの六〇が一日で出ちゃう日もあった。ところがお酉さまともなるとその四倍、ざっと二頭分がさばけちゃったんです。夕方から混みはじめて、並んでいるお客を整理するのにロープを張って、三人の下足番がさばいて、と。それが明け方まで続いていたものです。そう、一〇年くらい前までは毎年、そういう光景が見られましたね。いまでもお酉さまには、五、六〇〇人くらいは入っていますよ。

※馬肉は長野、熊本でも名物とされているが、かつては東京の味として下町っ子たちに親しまれていた。そして、東京でさくら鍋といえばここ、吉原土手の馬肉屋と相場が決まっていたという。戦後は軒を連ねた馬肉屋のながめはすっかり姿を消してしまったが、「中江」ただ一軒が、古くからの名残りをとどめている。中江氏はその三代目主人で、昭和一二年生まれ、五二歳(1990年当時)。同店の建物は関東大震災後に復興したままの建築で、いかにも昔の東京の商家らしい風情と貫録を感じさせる。土台を入れ替えてあるので、あと二〇年は大丈夫という(平成12年に内装は新しくしている)。

かつてはどこでも、東京にだって馬がいたんです

 僕が仕事をやるようになったのは、高校生のときからです。父が身体をこわしていたので、錦糸町でやはり馬肉屋をやっていた父の弟がその店をやめてうちに来てくれまして、僕が見習いをやって、という形で。大学時代も帰ってきたら仕事をしてという感じで、自然と仕事に馴染んじゃいましたね。昭和二〇年代の終わり頃になりますか。で、その叔父が亡くなって、僕も結婚して、二五歳でしたか。それから三代目ということで、板前を使ってやってきました。
 仕入れはいまは、すぐ近所の問屋さんに任せています。ええ、祖父の時代からのつき合いです。馬の生産地はいまは、九九パーセントが北海道です。それを長野の問屋が競りで買って、それがさらに東京の問屋に回ってくるんですね。
 でも、七、八年くらい前までは、芝浦で競りがあて、僕なんかも行って、この馬がいい、なんて見ていたものです。尻尾を切ったところで、中に霜が降っているかどうか見分けるんです。それと、バラの厚みを見て決めるんですね。競りは問屋さんを通しますよ。当時はうちでも三軒の問屋さんが入っていました。戦後でも、千葉でもどこでも、けっこう馬はいたんです。東京にだっていたんですから。それがだんだん減ってきて、僕が芝浦に行ってた頃は、一度の競りで一五、六頭くらいはいたのに、最後は二頭、一頭ですからね。馬を扱う業者も少なくなっちゃいました。昔はうちの近所の三河島の屠場からも入りました。
 そんな具合ですから、いまは肉を選びたくても選べないというのが実情です。ただ、最近は北海道でも積極的に種付けをして、食用の馬を生産するようにはなってきているということです。だから、たまに千葉で飼育したなんてのが入ることもあります。高い値が付くようになったからでしょう。
 いちばんうまいのは、北海道産の農耕馬で、ペルシュロンという種類の馬ですね。しかも、六歳から七歳の雌、黒かげと呼ぶんですけど、これがいちばんおいしい。脂も厚くて黄色っぽい。われわれはこういうのを黄上がりがあるっていうんですが、甘味があってそりゃあおいしいですよ。それで、肉の色は鮮やかで、細かく霜が降っていいるわけです。でもいまは、七歳までなんて育てるのはまれですね。早いのは三歳くらいでつぶしちゃってます。だから脂も白いんですね。まあ、生産者としては、牛に比べて手間もエサ代もかかるってことがあるでしょう。牛なら、二年も飼えばいい値段で売れますからね。(中略)

いつまでも下町でいいっていう時代でもないと思います

※昔のように選べる時代ではないからぜいたくはいえない、といいながらも、できる限り良質の馬肉を仕入れ、伝統料理としての味と形を守る努力を続ける一方、中江氏は、馬肉に親しむ機会の少ない若い人たちになんとかその味を知ってもらおうと、独自のアイデア料理もいろいろと工夫してきている。たとえば、馬肉ステーキ、ユッケ、馬刺の握りずしというのもある。

 さくら鍋に味噌だれを使うのは、昔の馬肉は草を食べさせていたので臭かった、その臭い消しのためなんですね。いまの馬肉はエサが違いますから、そういうことはないんですけど。うちでは昔から、江戸甘味噌と割り下を合わせています。昔は甘味噌といってもいまほど甘くはなかったから、白味噌と赤味噌を混ぜて、砂糖もかなり入れたようですね。馬肉は牛なんかと比べると非常に軽い肉ですし、いまは臭みもないし、食べた後で店の表に出てから「いまの食べたの馬なんだよ」なんていわれてびっくりしているお客もいますよ。
 戦前はたしか一人前一五銭くらいだったと聞いていますし、僕が仕事を始めた当時でも八〇円、ご飯食べても一〇〇円そこそこ。ほんとに安い、下町の庶民料理だったんですがねえ、いつの間にか高級料理になっちゃいましたね。なにしろ卸値でも一〇年前の倍以上ですから。量がないし、また馬肉屋自体がほとんどなくなっちゃったから仕方がないかもしれませんけど、それに甘んじているだけじゃ、いまの若い人たちが友だち同士で気軽に食べに来る、というわけにはいかないでしょ。いま客単価は一年平均して四〇〇〇円くらいですが、やはり三〇〇〇円でも、三切れか四切れしか入っていないってんじゃ、なんだか詐欺みたいでやりたくない。やっぱり「食べた」という感じがするだけの量を出して、それで一人前ということじゃないと気がすまないんです。そのへんは適当に、ということができない。よくいえば下町っ子気質ってことになるのかもしれませんが、土台、考えが古いんですね。でも、それが僕のやり方なんです。だから肉自体が高くなっちゃってどうにもならない、それが悩みです。座敷でも、小間の部屋はないのかとか、衝立がないのか、なんてお客が増えてくると、これからはそういうのも必要なのかな、と。下町だからってあぐらをかいて、いつまでも下町でいい、という時代でもなくなってきている気もするんです。まあ、古いお馴染みさんは汚くて古い店だからいいんだ、ビルなんかにしたらお客が減るよ、なんていってくれますがね。お客の平均年齢がどんどん上がっていますから、ともかくこのままというのじゃいけない、と。でも近頃は休日の八〇%は家族連れですからね。少しはいい方に向いているのか、とも思うんです。