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INTERVIEW

1986年 月刊食堂7月号 「トップマネジメントセミナー講演集」より

単純商売を愚直に

大河原 伸介氏(日本KFC 元社長)
 
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チェーン受難の猫型マーケット時代

 今のマーケットの実態はどうなっているかと申しますと、猫型マーケットであると思うのです。犬型と猫型ではどう違うかと申しますと、犬は腹が減っていようがいっぱいだろうが飼主、つまりわれわれ情報発信側が呼べばかならず寄って来ます。ところが猫はお腹がいっぱいだと見向きもしない。来るか来ないかは猫次第。しかも飼主がよかれと思って手を出したりするとひっかいたりします。こういうマーケットになってしまってぃるのですね。
 この猫型マーケットにおきましては大きいこと、だれもが知っていることがマイナス要因として作用してしまいます。15年間チェーン展開をしておりましてひしひしと感じるのですが、われわれチェーン受難の時代です。ひとつのパターンの店をたくさん持っているということ自体が「罪」なんですね。ダサイと言われたりする。
 じゃ、どうすればいいのか、と猫であるお客に聞きますと、もっと手をかけろ、あれもしろこれもしろ、と細かい要求をたくさん出して来ます。でそれをこちら側が満たしますと、一回だけやって来て、ハイそれでおしまいです。さきほども申しましたように、ぜ―んぶお金のかかることばかりです。お金をかけて個々のニーズを満足させてやっても、すぐ飽きてしまう。非常に飽き易いマーケットというのが、現代の、しかもことに日本の消費社会の一大特長ですね。
 先日ある食品メーカーの方とお話ししたのですが、10年前はヒットといえば最低10億円が単位だった。ところが、今は2億円を超すとヒットになってしまうというのです。これほどまでに市場が細分化されているわけです。それに日本人の悪いクセですが、すぐコピーしますね。それも本質的なコピーではなくて上っつらだけのコピーです。この物真似の横行であたらひとつのマーケットをぶちこわしてしまう。もっと育っていい市場の芽をつんでしまうわけです。結局、コピーした方もされた方も全員バンザイでもうからない、というケースもしばしば生まれてしまいます。
 猫型マーケットにこのコピーの横行が重なってしまって、今の日本は非常に錯綜したマーケットが形成されているのではないでしょうか。
 10年前まではアメリカの消費社会を検証すれば日本がどう変わるか、ある程度予測がついたものなのですが、今は全然参考になりません。日本は消費については、世界の最先端を行ってしまっている。というよりはとんでもないところにまで日本の消費社会は突き進んでしまっている。どこも全然参考にならないのです。逆に、韓国とか台湾の方が、消費社会の健全な姿を見るという意味で参考になるのではないかと思いますね。何でも行くところまで行ってしまうと、本来の姿、原形というところに回帰するものですからね。

飽き易いマーケットにどこまで付き合うのか

 マクドナルドの藤田社長ともよくお話しするのですが、藤田さんは「大河原君、うちが日本に5000店作る頃は日本人は日は青くなって金髪になるぞ」とおっしゃるわけです。私はそうは思わないのですね。日本人の体質といいますが、胃腸の具合なのでしょうか。25歳を過ぎたところで、ものの見事に和風回帰するのですね。それまで「オレはトロトロのステーキが好きだ」なんて言っていた男が、急にそば好きになったりですね。これは日本の気候だとかいろいろなことが関係するのだと思いますが、洋風化一本の流れという形にはどうも日本はならないのではないか、と思うのです。
 それから、今の若い人たちが考える「洋風」というものと、われわれの世代の考える「洋風」とでは、意味と申しますか定義がまったく違います。今の子供たちは生まれた時から、コカコーラやマクドナルドやケンタッキーフライドチキンの横文字はんらんの中にいるのですから、むしろわれわれが考える「洋風」こそがベースなのです。われわれは和食はこうでこういう雰囲気の店で食べて、フランス料理はこうで、という概念がありますが、彼らにはそんなものはありません。フランス料理のあぶらっこさを消すためにウーロン茶をいっしょに飲むことに何の違和感も持ちません。いろいろなものの混在に見えるものも、彼らにとってはその理由がちゃんとあるわけですね。われわれはフランス料理はこうであるとか、アメリカ風とはこうでなければ、といったようにイメージを限定していますが、彼らはそういうものからは完全に解放されている。
 ですから今の日本の社会は「外国人が描いた浮世絵」のようなものではないかと思うのです。旧世代から見ると何かちぐはぐなんだけれども、描いた人間、つまり若い人たちからすれば違和感なく調和している。こんな社会になっているのではないかと思うのです。
 情報発信側がいろいろな思い入れで店を作っても、受け手は違う機能を見出すといいますか、全然違う使い方を勝手にしちゃう、出し手の思い入れと受け手の捉え方の間にこれほどまでの開きが出てしまった時代はかつてないのではないでしょうか。これも日本だけの特殊な状況でしょうね。
 飽き易いということをさきほど申しましたが、これほどコンセプトが長続きしない国というのも、ちょっと例を見ません。例えばケンタッキーフライドチキンは、アメリカは45年経ってもいまだに、同じ店で同じやり方をしてなんとかいけちゃうのです。一方日本は4年に1回大改装しなければなりませんし、メニューだって新しいものを出したり入れたりして鮮度を保たなければなりません。そうでないとお客はついて来なくなっています。ところがこちら側がお金をかけた分だけきちっと反応してくれるかというと、これまた全然当てにならないのです。非常にもうけづらくなっているというのは、この点をいうのです。
 これが1店の単独店であれば時流に合わせていかようにも対応できるのですが、同時にわれわれはチェーンとしての共通のアイデンティテイも打ち出していかなければなりません。1店1店の個別的な対応をしながら、全店をひとつの傘の中に収めなければならない、という非常に矛盾したことをやっているわけです。
 均質なことをやっていながら、お客への見え方としてはそれぞれ違っていることをしなければならない。こういう矛盾の中で企業規模を拡大していかなければならない、というのは想像以上にたいへんなことです。
 ですから私の仕事のかなりの部分はアメリカ側にどう日本のマーケットの特殊さを説明するか、にさかれていると言ってもいいでしょう。考え方が全然違うのです。アメリカのケンタッキーフライドチキンは、基本的に変えなくていいんだという考えですね。経営の原則に忠実に従って、たんたんとやつていけばよいのですが、日本じゃそうはいきません。投資のスパンに対する考えも違ってきます。この考え方の違いをどう調整していくか、というのが私の仕事の重要なもののひとつですね
 一方、市場の特殊性、時流というものに、チェーンとしてどこまで対応すべきか、という問題があります。
 これは、年商1億とか2億とか、せいぜい5億の年商規模であれば、マーケットのご希望のままに相当きめ細かく対応できると思うのですね。
 ところが、 100億とか200億とか、500億になりますと、マーケットに敏感に応え続けるというのは、もはや無理です。現実にそれをやっている会社がひとつあります。セブン・イレブンはそれをやっていますね。あそこはマーケットの脈博を毎日毎日とらえている唯一のチェーンでしょう。ただセブン・イレブンも脈博を合わせているのは、商品のアソートメントにおいてだけですね。われわれの場合はそれに加工が加わりますから、とても出来るものではありません。
 お客さまというものは、甘やかせばどこまでもいってしまうものなのです。かゆいところに手の届くサービスをひとたび受けたら、もうそれが当り前のものになってしまいます。
 きめ細かいサービスというものはもちろんお金がかかりますから、こういうものを深追いしていくと、確実に利益構造を悪化させますね。チェーンとしてできるものできないもの、追っかけるべきもの追っかけてはいけないもの、これをきちっと分けておかないと大変な混乱に巻き込まれてしまいます。
 と申しますのは、内需の拡大は現在の日本経済の一大テーマです。あらゆる企業が内需関連のビジネスに入り込みますが、国内市場でいま三ケタ成長が期待できるものは食堂業しかありません。商社などがさかんに外食とリンクしようと必死ですよね。もう一度激烈な外部からの進攻が起ころうとしています。
 彼らは後発になるわけですが、後発というのは既存のマーケットはとられちゃっていますから、先発のすき間を狙って来ます。先発のやらない「きめ細かさ」で勝負をかけてきます。他ではやらないサービスということですが、これに巻き込まれてはまずいのです。

ブームにならず町に根づくことを目指す

 われわれはむしろこういう時代だからこそ、メニューでも店作りでも単純化の方向をとろう、としています。そして時流をどこまでも追いかけて、「流行る」店になるのはよそうと決意しています。現在平均的な来店頻度は4ヵ月に1回なのですが、これがヘタにブームになって、頻度が高まろうものならば、かならず飽きられます。この道はなんとしても回避しなければなりません。具体的には、われわれはうなぎ屋になろう、と言っています。どの町にもかならずあって、来店の頻度は高くはないのに不思議につぶれたという話はきかない。年に一度だけ、土用の丑の日だけブームが到来して、思い出される。うちはクリスマスがそれに当たります。1度もブームの波に洗われたことはないけれども、しっかりと町に根づいている。まさにうなぎ屋こそがケンタッキーフライドチキンのチェーンとしてとる道なのではないか、と考えているわけです。4ヵ月にいっペんという低い来店頻度で食べていける、そういうコンセプトで利益がちゃんと出て、細く長く生きていける設計にしておくことこそが、今求められているのではないのでしょうか。
 食堂業で大きくなるというのは、他の産業で大きくなるのとは意味が違いまして、ただ数が横に増えたというだけなんです。原則として質的な成長はないのです。例えば、歩兵で一発一発撃っていたものが、機関銃が出て来てタンクが登場する。これは質的な成長ですね。この場合は戦い方も変わるわけですけれども、うちが100店のときと600店になった現在とどう変わったかというと、要は歩兵が600人になっただけのことです。往々にしてここのところを錯覚してしまうのです。
 ですから私としましては、このフライドチキンという単品商売をどこまで愚直にドジドジとやっていけるか、この点こそが勝負どころだ、と見ている。
 時代がどんどんハデやかな方に行って、ファッション性のない企業は敗退してしまうかもしれない。棄てられる企業の中にわれわれが含まれることになるかもしれない。それは分かりません。しかし負ける時はどうやったって負けるのですから、それならば、現在の愚直路線をとことん守り抜いてやろう、というのが今の私の心境です。マーケットが細分化し重層化し、混乱が生まれれば生まれるほど、単純化の愚直路線が光るのではないか、と考えているのです