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INTERVIEW

1985年 専門料理5月号 「今月の顔」より

本質を見失なわなければ古くはならない

高橋英一氏(瓢亭14代目当主)
 
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守るべきものを守りながら変えていく

 よくお客さんが、瓢亭の玄関はどこや、と言われるぐらい私どもには玄関らしいものがありません。道路からすっと入って石畳を通り、それと意識する間もなく露地を伝って部屋に入っていただく、ということになります。
 庭にある木々も、どこにでもある雑木ですし、石にしてもその辺にある石であって、決して銘木、銘石の世界ではないわけです。つまり、演出らしい演出など何もない、というのが、あえて言えばここ瓢亭の演出ということになるのでしょうか。
 部屋にしても余分なものは削ぎ落とされていて、決して明るい部屋とは申せません。いわば茶屋のようなものですから。まして古い建物ですから、華やぎといった世界からは最も遠いところにあると言っていいでしょう。
 こういう中で料理をお出ししているわけですから、煌びやかな料理や凝った料理というのは、そぐわないのですね。つまり、料理屋というハレの場にしては、地味なのです。
 じゃあ、どんな料理をお出ししているのか。ひと言でいえば、お茶の心を持った料理、ということになりましょうか。旬の材料を使って、あまりいじくって形を変えずに、おいしく調理する。当り前と言えばまことに当り前のことだけで、それ以上余分なひねくりというのは、まったく必要ないし、かえってそれをやっても映えないということです。
 もちろん季節季節に行事がありますから、それを何らかの形で献立の中に入れるということは考えます。しかし、それはほんの2〜3でいい。雛の節句ならハマグリ、シラウオ、菜の花などをさりげなく使うだけで、何かの材料でお雛様を作る、というふうには考えないということです。ほんのりと感じる程度でいいと思っています。何となくにおってくればいいのです。
 ですから、もし私どもの店に若い料理人さんが来られたら、その料理を食べてガッカリなさる方があるかもしれません。なぜなら、私どもの料理には、特にきばったところがあるわけではありませんし、艶やかなものがあるわけでもない。まして絵になる料理でもない。飾り気のない、地味な料理ですから。
 ただその中に、お茶の心とでもいったような感覚を感じていただくことができれば、それなりに楽しんでいただける料理だ、とも思うのです。結局のところ、この瓢亭という舞台では、お茶の心を基本とした料理が一番合っているということになります。現代の料理屋さんの料理はどんどん趣向を凝らしたものになっていってるようですが、それはそれとして、そうした傾向を私どもで取り入れても仕方がないと思っております。
 もちろんこれまでに、古くから伝えられてきた料理に変化をつけたい、なんとか変えていきたいと考えたこともあります。ですけど今はそんなあせりもなくなってきました。お茶の心を中心とする料理が私どもの料理であり、それさえ見失なわずに中心にありさえすれば、それを基本としてある程度は変化していくものですし、それでいい。時代は動いて行き、それにつれて材料、調理法などが変化していきます。それを無視するということではなく、必要に応じて私の料理も当然、変化していくものです。これは必然的なことでもあるでしょう。要は、守るべきものを守りながら、その中でゆるされるものは変えていくということになると思います。

日本文化の良さは受け継がれていくはずだ

 料理の中心がお茶にあるといっても、お茶というのは単にお手前だけでなく、いわば日本文化そのものが凝縮されているようなものですから、奥が深く、ただお茶事の作法の知識だけで料理ができるとは言えません。私は幸福にも20年あまり、井口海仙先生にお茶を習う機会を得ましたが、時に応じて話される先生の幅広いお話が、物の見方ということを知らず知らずのうちに身につけていく上で大きな力になったと感謝しております。
 先生との出会いが、私という人間を大きく変えてくれた、といっても過言ではないでしょう。それと、私が生まれ育ったのが、この瓢亭という舞台そのものでしたから、小さいころから周囲の自然、そして調理場の雰囲気にいたるまで肌で感じて育ってきた、ということも、今の私の感覚に大きな影響を与えてきたと思います。たとえば小さいころから花を育てることが好きで、よく南禅寺に花をとりに行ったりしたものです。今では自宅の庭に150種類くらいのお茶花を育てていますが、これも南禅寺という雰囲気の中で育ったことが影響しているのかもしれません。
 花を育て、その花を部屋に生ける。お茶碗を毎日使い、料理を盛る器に触れる。こうした時間を毎日持っていることが、私が料理を作っていく背景にあるということは、とても大切なことだ、ということになるでしょう。つまり、ある感覚の中に浸っていると、おのずと感性がそのように育ってくる、ということなのでしょう。これは、どれだけ多くの知識を仕入れるよりも私自身の中に色濃く影響を与えていることだと思います。
 日本料理など味わったこともないという若い人が育ち、嗜好も変化してきています。私どもの料理もそうした感覚を無視できないと思うこともあります。でも、時代というのはいつもそのように動いてきましたし、その動きのスピードは早いにしろ、日本文化の良さというものは、必ず受け継がれていくはずです。そうであれば、本質さえ見失なわずにいれば、来たるべき時代にも決して古くならずに残っていける、というような気がしています。