絶対お客に恥をかかせてはいけない
北都札幌の名門バーとして知られる「やまざき」の開業は、昭和三三年。戦後の接収下の東京会館を振り出しに、進駐軍のクラブや横浜のバーなど、もっぱら外国人相手の店でバーマンとしての腕を磨いた山崎氏が、はじめて独立開業した店であり、同時に、札幌にはじめて正統派バーを根づかせた名店である。
山崎氏が修業した当時の東京会館には、戦前の横浜ニューグランドホテル出身で、日本のバーマンの歴史に名を遺す二人の師匠をはじめ、腕っこきのバーテンダーがひしめいていたそうだが、かつては銀座は別にしてもホテル系が主流だった正統の仕事を、地方の街場で開花させた功績という点では、山崎氏が第一人者と言っていい。また、㈳日本バーテンダー協会の大同団結、発展にも尽カし、六一年春までの三〇年間、北海道本部の会長も務めた。日本のバーの戦後史を語ることのできる、貴重な存在である。
バーテンダーの仕事に入ったのは戦後、戦前は染物屋の店員でした
私がバーテンダーの仕事に入ったのは、終戦の年の昭和二〇年です。軍隊から帰って来て、何でもいいからとにかく仕事に就かなきゃいけないと思っていたところ、軍隊の友人が、東京会館で駐留軍要員を募集しているから行ってみたらどうだ、と言われましてね。戦争中はこの商売はできないことになっていて、戦後になってから駐留軍要員としてバーテンダーが必要だということで、いろいろ伝手を頼って集められてはいたんですが、絶対量が足りなかった。ですから希望者はだれでも入れたんです。私、戦前は親戚の家の染物屋の店員をやっていたんですけど、その商売は向いていないと思ってましたから。
東京会館に入ったのは、二〇年の一二月です。接収されて、まだ開設の準備をしているときでした。就職したといっても最初は雑役ですよ。宴会場なんか煤だらけでしたから全部きれいにして、磨いて、翌年になってようやく営業を再開したんです。それで、大きな宴会があるとバーテンダーが足りなくなって、雑役のほうから臨時の応援に駆り出されるわけです。いつもは菜っ葉服なんですが白いコートを着せられましてね。それでにわかバーボーイです。で、何度かそうやっているうちに親方が、お前、バーのほうへ来ないか、と声をかけてくれましてね。その頃、私はお酒は飲めなかったのであまり好きじゃありませんでしたし、昔から甘党ですから本当はベーカーに行きたかったんですが、ベーカーには空きは全然ないと。バーなら人が足りないからいくらでも入れるというし、雑役よりはましだと思って、それでバーに入ったわけです。雑役で入って半年くらいたってましたか。戦前ならこんなことはなかったでしょうけど。仕事は雑役の頃からいろいろやらされて、だんだんと覚えてはいましたね。
当時は接収中ですから、お客はほとんど外国人ばかりで、日本人はゲストとして来た人だけです。けれども私は、軍隊に召集されたときにも敵性語として勉強してはいけないことになっていた英会話の本を隠し持って出征したくらいで。英語さえマスターしていれば将来なんとかなると思って独学でやってたんです。ところが、東京会館で外国人に話しかけてみたら、全然通じないわけですよ。それで一所懸命になって会話の練習をして、それが後々まで大変役に立ちました。
東京会館での私の師匠は二人です。浜田晶吾さん、本多春吉さん、そして浅倉進次郎さん。それぞれ第一回から三回までのミスターバーテンダーを受賞されている方たちです。浜田さんと本多さんは横浜のニューグランドホテル出身で、二人とも外国人の師匠に教わった方です。私の最初の親方は本多さんで、浜田さんは本多さんの先輩という関係ですね。浜田さんは戦前、銀座の「カフェ・ライオン」時代にミリオンダラーで有名になった方です。女性のカクテルとしては一番有名なカクテルで、昔にもあったらしいんですが、浜田さんが日本風にアレンジして出したんですね。その浜田さんから聞いた話ですけど、昭和のはじめ頃のニューグランドホテルのボーイの服装は、ハッピに股引、地下足袋だったそうです。まあ民族衣裳ということだったんでしょうが、いろいろな方から意見が出て、すぐに黒のズボンのいまのボーイのような服装に変わったそうです。
それから当時は、アメリカは禁酒法の時代。横浜の港にアメリカの船が着くと、みんなまっすぐにニューグランドに押しかけてお酒を飲む。立ち飲みで、肩越しに手を出してお酒やお金のやり取りをするんですね。そうすると閉店後、カウンターの下にお金がいっぱい落ちていて、それがいい小遣いになったそうです。
※山崎氏は大正九年、東京・小石川の生まれで七一歳(1991年の取材当時)。札幌の名門バーとして知られる「やまざき」の創業店主である。昭和六一年まで三〇年間、㈳日本バーテンダー協会北海道本部の会長を務め、北海道での正統派バーの定着、普及に力を尽くしてきた。つまり「やまざき」は、北海道の正続派バーの「宗家」と言っていい。同時に、分裂、大同団結の歴史を歩んだバーテンダー協会の発展にも尽力し、IBA(国際バーテンダー協会)の正式加盟の交渉の際には、パリ大会(昭和三五年)、ハンブルグ大会(三七年)と二度、日本代表として出席。加盟を実現させている。また、昭和五〇年のカクテルの全国コンクールで優勝、翌年五一年にイタリアのセント・ビンセントで開かれたIBAカクテルコンペティションで二位になるなど、技術コンクールでもさまざまな賞を受賞。名実ともに日本を代表するバーテンダーの一人として、現役であり続けている。
共同経営者に逃げられて、借金を背負ってこの店をはじめました
東京会館のあと、アメリカ陸軍工兵大隊将校クラブになっていた三井倶楽部、太平洋保全司令部将校クラブを経て、横浜の「グルメ・グリル・エバー・アンドレー」という店でチーフを務めました。(中略)
三井倶楽部へは東京会館からの出向だったんです。ここである晩、アメリカの軍曹と取っ組み合いのケンカをしましてね。まあ向こうも酔ってましたけど、私がウェートレスにお世話したお嬢さんを誘惑しそうなんで、あまり近寄るな、と忠告したんですね。そうしたら私のことを突き飛ばして、それでケンカに。ひと晩中、庭の木の中を逃げ回りました。たぶんそのことが原因で、人員整理のときにクビになりました。自分では優秀な従業員だと自負していたんですけれど。
私は昭和二八年に札幌へ来て、はじめて日本人相手の仕事をやったんです。それまでは、横浜の店も外国人経営で外国人相手でしたし。ところが、日本人のお客を相手にしてみると、とにかく注文が細かいわけです。外国人だとウイスキーやジンの銘柄なんかまず指定しませんでしたし、今日はちょっと手元が狂ったかな、と思っていても、ほとんど文句はでませんでした。でも、とくにその頃は、戦後のカクテルブームの始まりの時代でしたから、お客はあちこちでいろいろな知識を仕入れてきてはあれを作れ、これを作れ、いやお前の作り方は違うぞ、なんて言うわけですね。ですからわれわれも必死になって勉強して、分からない注文が入ると仲間に電話して、お互いに教え合いながら作ったものです。当時はいまと違って資料なんてほとんどありませんし、いまから見れば知識の程度は低かった。そしてその後、昭和三〇年代後半頃でしたか、水割り全盛時代がありました。ボトルキープというのが流行った頃です。ちょうどあの時代は、急にバーの数が増えて、バーテンダーの養成が追いつかなかったときで、見習いでも何でも白いコートを着てチーフになって。ですから、水割り以外に何も作れないチーフというのがたくさんいましたよ。
札幌では最初「モンタナ」という店にチーフで勤めました。カクテルが何でもできる銀座スタイルのバーの札幌での第一号です。それまで札幌には、ビアホールとかカフェーはあっても、銀座スタイルのバーというのはなかった。私が来る一年前にできて、地元の知識人や財界人は飢えてましたから、連日大繁盛でした。それから、ある有力者の紹介で協同経営をやってみてすぐに失敗しまして。全部持って逃げられたわけです。この「やまざき」をはじめたのはその後、昭和三二年です。無一文で借金だけ背負って、毎月返済しながらやってきたわけです。
※山崎氏の若い頃の本当の志望は画家だったそうで、三井倶楽部時代には文化学院美術科に通って卒業。その後も絵は描き続けている。札幌へ来た動機も、「一年間だけという話で、それならゆっくり北海道の絵を描けるから」ということだったが、こちらに来たらバーテンダー協会が分裂して、北海道の責任者にされちゃって、帰るに帰れなくなりまして。そのままとうとう二九年間です」。絵もさることながら、山崎氏は「やまざき」の開店以来、お客の横顔を切り絵にしてコレクションしており、これも「やまざき」の名物になっている。昭和四九年のもらい火で大半を消失したがその後も続け、最近、通算一万三〇〇〇枚になった。
サービス業に携わる者は、絶対お客に恥をかかせてはいけない
私は戦後しか知りませんが、こういうバーでのお客の楽しみ方というのは、あまり変わっていないと思います。ただ、層が広がりました。昔は大体、中年以上というところでしたけど、いまはOLでも親から仕送りしてもらっている学生まで来ますからね。お嬢さんや奥さんたちが一人でカクテル飲みに来るなんて、昔はまずあり得ませんでした。(中略)
私がバーマンの基本として大事にしてきたところは、まず、サービス業に携わる者として、絶対にお客に恥をかかせない、ということです。私の先輩に、オレの作ったものが気に入らないのならうちに来なくていい、勘定いらないから帰ってくれ、なんていう人がいたけど、これは考え違いだと思います。お勘定についてもそうです。それから、どちらかが恥をかかなくちゃならないなんてこともあります。そういうときには自分が恥をかく、ということですね。それともうひとつ、お客の好みをなんとかして見抜く、覚える、ということ。好みは千差万別です。スタンダードは一応処方が決まっていますよ。でも処方どおりに作るだけでは、お客は満足してくれません。お客は寛容で、せっかく作ったんだからまあいいけれど、本当はもう少しこういうほうがいいのに、というとき、腕のいいバーテンダーなら大体、二杯目でちゃんとお客の好みに合わせるものです。