想像を超えた内面的な豊かさ
「味」こそがわれらの誇り
「アルザスに行くなら、『ジャック』に行け」と、プロのパティシエの間で何年も前からささやかれている。それほどまでにすごい店なのだろうか。モダンな店構え、斬新なデザインの菓子、個性ある味の組合せの菓子。めまぐるしく変化するパリの最先端をゆく菓子。だがそれ以上だとしたら……。ジャックのジェラール・バンヴァルト氏を知らない若いパティシエはそんな期待で想像を膨らませるかもしれない。
そして実際にジャックを訪れ、ジャックの菓子を食べ、バンヴァルトという人物に出会う。すると自分が思い描いていたイメージがいかに薄っぺらなものだったか、さらには知らずにいた菓子の世界の奥深さに気づくだろう。
そして若きパティシエはこういうに違いない。
「ジャックはすごい」
フランス東部アルザス地方はライン河を国境にスイスとドイツのふたつの国に隣接している。またアルザスはフランスとドイツの対立の影響をまともに受けた土地である。ある時はフランス領、またある時はドイツ領という混沌とした時代をすごしてきた。そのためアルザスにはドイツとフランスをみごとに融合させた独自の文化がある。そのひとつが菓子店を兼ねたティーサロン。ジャックのあるミュルーズには中心地だけでも6軒ほどはある。
アルザスのお菓子はフランスの他の地方に比べて、レベルが高いと言われている。もちろん軒数の多さは競争力を高めているだろうが、それ以上にアルザス人のドイツ的な生真面目さ、規律を重んじ、妥協を許さないという気質の表われでもある。
ジャックは、そんなひしめき合う菓子店の中でも最高の店だろう。クリーム色で統一された店づくり。彩りを添えているのは表情豊かなたくさんのお菓子だ。
お菓子を覆ったメレンゲの焦がし具合や小さな気泡ひとつないナパージュ、デコレーションのスライスアーモンドの炒り具合など、細部にまで神経が行き届いているのが分かる。 一つひとつの見かけはシンプルだが、凝ったデコレーシヨンを施さない分だけ、素朴でおいしそう、食べてみたいという気持ちにさせる。そのグルマンディーズ(美食欲)にしたがうことにする。
素直な味だ。食べさせたい素材の味がはっきりしているのだ。(中略)
外観だけでは想像がつかない内面的な豊かさ、素材そのものの味の中にぐっと引き寄せられる。そんな魅力が「ジャック」流、ジェラール・バンヴァルト氏の菓子である。
「よいものだけで、よいものをつくるのみ」というフランスの名料理人モンタニェの言葉がバンヴァルト氏の理念である。
よいものとは、まず材料へのこだわり。
アーモンドはスペインのマルコナス種、ヘーゼルナッツはイタリアのピエモンテ産を使い、バターは毎週シャラント県から直送。キルシュなどの洋酒はもちろん地元アルザスの最良のもの、というように常に市場で最高のものを選ぶ。
「このチョコレートの方が安いから、こちらに替える。なんていう考えはお客を欺くことだ。職人は誠実であるべきだ」
バンヴァルト氏は穏やかな口調で、しかしきっぱりと言う。
店内を奥に進み厨房に入る。仕上げ、生地、アイスクリーム、チョコレート専用と、厨房はそれぞれ独立し、各部屋には必要器具が完備してある。たとえばナイフ1本を必要なたびに捜しまわったりしないためだ。使った道具はかならずもとの場所にもどしておかないと、バンヴァルト氏の一喝が入る。セルクルや包丁が大きさ順にきれいに片づけてある。磨き上げたステンレス。ビスキュイのかけらひとつ落ちていない床。冷凍庫の扉には中に入っているものをメモして貼ってあったり、厨房の隅々まで動きやすく整理、配置されている。厳しさは技術面でも同じだ。
「ビスキュイ用のメレングなど、卵白も立て方ひとつで焼き上がりに影響が出るように、菓子づくりにはきっちり守らなければならない小さな約束ごとがある。それらディテールを寄せ集めてはじめてよい仕事ができるもの」
バンヴァルト氏の言う「よいもの」とは、材料の品質だけを意味するのではなく、衛生面、材料の扱い方、販売などお菓子をとり囲むすべての要素を指す。
ジャックの誕生秘話
「最近はしたがうということを知らない若者が多すぎる。自分の考えばかり主張して、それでまかり通ると思っているようだが、私のところでは通用しない。まず従順であること。そうしてはじめてたくさんのことが吸収できるからだ」
フランス東部アルザス地方の街、コルマールでバンヴァルト氏は生まれた。父親はパン菓子職人。バンヴァルト氏が菓子の道をめざしたのは、特にきっかけがあったわけではない。昔は肉屋の息子は肉屋に、菓子屋なら菓子屋になることがあたり前の時代。父はおもちゃ代わりにブリオッシュの生地をよく彼に与えたもので、8歳頃にはブリオッシュを一人前に丸めることができたという。
中学卒業後、見習い(アプランティ)修業にアルザス地方のスイスに近い街、ミュルーズのとある店に入る。3年間の修業(現在は2年間)でひととおりの製菓技術を学んだ。その直後に国境を越えてスイスのチューリッヒにある菓子店に就職した。当時のスイス菓子は仕上げ方やデコレーション技術といった点で、その頃のフランス菓子より進んだものだったからである。新しい傾向を取り入れるためその店で1年間働いた後、フランスにもどった。
しかしすぐさまアルジェリアヘ赴く。フランスの植民地だったアルジエリアでは独立解放のための闘争が54年から続いていた。内乱は激しくなり、フランスの政情にも影響をきたしていた。鎮圧のために数多くのフランス兵が同国に送られた。バンヴァルト氏も兵士として2年半をアルジェリアですごしたのだった。
そんな折、アプランティ時代をすごしたミュルーズの店のマダムから1本の連絡が入る。夫が急死したとのこと。パティシエがいなくて困っているので力を貸してくれないかという頼みだった。バンヴァルト氏はすぐさまミュルーズの店にもどった。
アプランティひとりだけで店を切り盛りしていたマダムはバンヴァルト氏に製造を任せる。店を軌道にのせるため精いっぱい働いた。そんな彼にロマンスがひとつ芽生えた。この店の娘である。
そして結婚。その頃には店のすべてを任されていた。スイスで学んだ菓子も自分流に取り入れながら、自分流の菓子づくりがはじまった。さらにこの店の権利一切を受け継ぐことになった時、バンヴァルト氏が心を痛めたことがある。義母にしてみれば自分は義理の息子ではあるが、彼女の夫の店、そして娘までも奪ったことになる。
そんなふうには思ってほしくない。亡くなった義父の名前を屋号にする――。こうして「ジャック」が誕生した。
今日味わう幸せは毎日の仕事の成果を結集したもの
71年にパリ・エコール・ルノートルの研修をはじめて受けた。そこでガストン・ルノートル氏に出会う。このことが彼のパティシエとしての生きざまを変えた。
「私の中でまるで爆発が起きたようだった。ルノートルの指導方針は、私も含めて数多くの小さな菓子店主に活力を与えた。彼なくして私の店の今日の繁盛はありえなかったであろう」
戦後の物資が乏しい時代の余韻がお菓子づくりの中にもまだ残っていた。バターの代わりにマーガリンを使うことなどがあたり前のように行なわれていた。ルノートル氏の「もっとバターを」という言葉は有名である。
こんなエピソードもある。ある時バンヴァルト氏と2名のアルザス出身のパティシエがルノートル氏のプライベートな招待を受けた。いったい何の用だか想像もつかなかったが、光栄に思い出かけた。ルノートル氏はパリで使う生クリームの質についてアルザス出身のパティシエに意見を聞いてみたかったのだ。バンヴァルト氏らは率直に思うことを述べた。ただそれだけのことだったが、ルノートル氏は喜び、彼らをシャンパンでもてなした。その夜11時すぎのこと、厨房でルノートル氏の姿を見かけた。さっき自分たちが述べたことを真剣に受け止め、そのとおりに試していたのである。その徹底した追究心にバンヴァルト氏は身が引き締まる思いだったという。
ルノートル氏のもとではよい友人仲間にも恵まれた。ペルティエ氏、フレツソン氏、ベルニュ氏などだ。他界したペルティエ氏を除いて、その他全員がいまでは「ジャック」と同規模の有名店の店主として活躍している。
エコール・ルノートルを離れてからも彼らとの交流は続き、これが基盤となり「ルレ・デセール」の誕生へと至る。
「ルレ・デセール」とは81年に発足したヨーロッパ(主にフランス)を中心とした高級菓子店の代表者の集まりである。会の主旨は洗練された品質と伝統を重んじ、創造性のもとに菓子業界を発展させてゆくことである。会員数は80名ほど。年に2回セミナーを開き仲間意識を強めるとともに、各自が研究成果を発表、助長し合う。
「ルレ・デセールという会は自分の店だけにとどまらず、店の外にもパティシエの目を向けさせてくれる。私にとってこの会はパティシエにとっての生クリームのように切り離せない。われわれの会は、たとえば飴細工のスペシャリストのような集まりではない。むしろ味そのものを追求するのが強み。味と伝統を守り、時代が求める傾向をプラスしながら美食文化を後世に伝えてゆくことが使命なのだ」
バンヴァルト氏はこの会の会長も務めた。はじめは責任の重さに不安もあったが、みなついてきてくれた。同じ目的を持つ仲間を指導し団結に力を注ぎながら、いままでにない充実を味わったという。そして昨年、惜しまれつつ会長を辞し、ルクセンブルクのビットオーバーワイスに引き継いだ。
組織のトップという大役を務めながらも、自分の店をしっかりと守ってきた。戦後の何もない時代から40年余り、アプランティひとりだけの小さな店にはじまり、少しずつコンスタントに「ジャック」を成長させてきた。開業からほぼ毎年、店には何らかの拡張工事があったほどだ。バンヴァルト氏は今日でも現役職人として厨房に立っている。
「店の経営には財務や製造そして顧客一人ひとりにまで責任を持つことが大切だ。なにかと気苦労も多いが、販売を管理している妻と支え合いながらこの仕事に情熱を注いできた。これまでの人生を思うと、階段を一段ずつ上るように成功を積み重ねてきた。今日味わう幸せは毎日の仕事の成果を結集したものだ。経営が思うようにいかずつらい時期もあるだろうが、決して投げやりにせず続けていく忍耐強さを若い世代に伝えたい」