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INTERVIEW

月刊食堂1991年3月号「たべものやの証人たち」より

使わない部分まで手引きする丁寧さ

渡辺誠之助氏(合鴨料理 鳥安 主人)
 
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昔、親父は使わない部分まで手引きしていました。そういう丁寧さ、それがうちの精神

 明治五年の創業から「あひ鴨一品」で、一流の料理屋の風格を守り続ける老舗。渡辺氏で四代目になる。暖簾に偽りなく、商品は合鴨の「すき焼き」のみ。皮つきのぶ厚く切ったのを、独特の油落としのついた鉄鍋で焼きながらおろしじょうゆにつけて食べる。ゆえに「すき焼き」で、割下で煮る鍋とは区別する。実際、戦前までは「烏安」でも、客の好みによっては「煮鍋」も提供していたという。その違いをあえて宣伝はしないが、鍋、火鉢まで考案した初代の形を守っていささかも変えようとしないところに、東京では数少ない老舗の料理屋の、それも合嗚ひと筋の専門店の誇りがあるといえよう。
 いま東日本橋界隈はすっかり間屋街に様変わりしてしまっているが、かつては柳橋花柳界の一郭で、創業の明治にさかのぼれば、江戸以来の盛り場・両国広小路の横手である。店舗は戦後の普請だが、数寄屋風の枠なつくりの玄関に、昔の情緒をしのばせている。

最初から〝あひ鴨一品〟でしたけど、なぜ合鴨だったのかは謎なんです

 創業は明治五年一〇月、代は私で四代目になります。ただ、昔の人はみんなそうだったみたいですが、三代目の父があまりしゃべらなかった人だったんです。で、そのまた父の二代目からも聞いていないんですね。ですからいろいろと分からない点が多いんですが。
 初代は渡辺代助といいまして、江戸時代は出羽の秋田の侍で、いわゆる江戸詰め、定府の侍だったようです。そこの三味線堀に江戸屋敷があって、どうも代々江戸に住んでいて、ほとんど江戸っ子だったらしい。それが、例の廃藩置県で侍を廃業して、江戸城から上野寛永寺へまっすぐ行く御成道、いまの昭和通りで古道具屋を、しかも「秋田屋」という屋号で始めたんだそうです。明治四年の秋か五年のはじめでしょうか。当時の侍はみんなやってますよね。ただ、侍の商法ですから何ヵ月か、すぐに潰れてしまったそうです。ところが、その古道具屋をやめてすぐにここへ移って「鳥安」という看板を掲げて、合鴨のすき焼きを始めているんですね。その変身がものすごく早い。でも侍がいきなり料理屋になるんですからね、自分ではできなかったんじゃないかとも思うわけです。
 ただ、初代は江戸詰めのお留守居役のような仕事をしていて、要するに外交官ですね。そうすると当然、侍だけれどもいろんな分野の人たちとつき合って情報を集めなければいけない。遊芸にもたけてくるわけです。で、これは父から直接聞いているんですが、五代目の尾上菊五郎さんと大変昵懇だったんだそうです。うちにとっていちばんの命の恩人になる方だった、と。というのも、その五代目さんの示唆でこの商売を始めたということなんですね。で、初代はここに大きな家を買った。なぜこの場所か、というのは、明治五年当時はまだまだ江戸が生きてましたから、両国広小路のちょっと裏に入ったところという場所は理想的だったと思います。両国広小路は江戸でいちばん賑やかだったんですから。
 ところが、なぜ合鴨専門だったのか、が分からない。最初から「あひ鴨一品」という言葉を使っているんですけど、当時は牛肉の鍋とかケトバシとか、熊、猿のモモンジイとかはありましたから、そういうのをやったのなら分かるんですが、うちにとっての大問題が、解明できないままなんです。それと、「鳥安」という屋号、なんで「安」なのか、これも謎なんですね。父の話では、帳場に座っていて酒の爛がついたかどうかが分かったくらいの、安というすごいおばあさんがいたから、というんですが、うちの過去帳にはそういう人はいないんですよ。ちょっと長くなりましたが、これがうちの来歴なんです。
 明治の当時、すでに合鴨のすき焼きがあったのかどうか、それは分かりませんが、かりにあったとしてもいまの形にしたのは初代だったと思います。そのすき焼きなんですが、別に威張るわけじゃありませんけど、本来は焼くのがすき焼きでしょ。でもいまは煮ちゃいますよね。うちの場合、戦前は父の代、戦後は私とどうしても話が分かれてしまうんですけど、戦前は、「あひ鴨一品」ということですき焼きという言葉は使いませんでしたが料理はすき焼きです。そして、お客さんのご希望でいまでいうすき焼き、つまり煮るときは、煮鍋といってはっきり区分していました。煮て食べるから煮鍋。当然、鍋も違います。すき焼き用のは油落としのついているので、煮鍋用のは平らの鍋です。まあ黙ってらっしゃれば焼き、大体は焼き鍋が圧倒的でしたけれど。余談ですが、通の方は八分通り焼いてそれから割下持ってこい、といって煮る。こくが出てますから、ただ煮るよりおいしいわけです。

※渡辺氏は大正一二年生まれ。戦後、店は戦災できれいに焼かれてしまっていたが「急に総領の責任を感じて」父・三代目に代わり暖簾の復興に着手する。店がないなら隅日川に船を浮かべてでもと奔走するが、混乱の中では再開にこぎ着けず、昭和二四年五月、ようやく店を復活させる。材木は埼玉県飯能まで買いに行き、大八車にのせて自分で引いて来たという。「とにかく建物は小さいのが建てられましたけど、父はまだそばにいてくれたものの、自分で始めてみると合鴨という単純なものが何なのかよく分からないんですね。お客さんに聞かれても答えられない。まことにだらしない話なんです。上野動物園に行ったり、鳥類研究家の方に相談したりして、ようやく謎が解けました」

夏鳥は脂がないから暑中休業、そういう商売でした

 合鴨は代々うちとつながっている間屋さんが本所にあって、そこから入れています。問屋さんはうちに入れることを誇ってくれるし、うちの方でもそこから取ることを誇りにしている式のおつき合いです。
 合鳴自体はかなり開発が進んでましてね、初代の頃は分かりませんけど、次の代から戦前までは、福島ものがほとんどで、あとは仙台あたりのものでした。よく「仙台鴨」なんていうでしょ。合鴨はよく鳴くので、私どもではひと口に「ナキ」と呼んできました。もともと合鴨は、野鳥の真鴨の雄、俗に青首といいますが、これとあひるの雌をかけ合わせたもので、ナキアヒルという呼名もありますね。それから戦前ですと、私が兵隊へ行くぎりぎりの頃は、千葉ものがずいぶんありました。私も船橋まで買いに行きましたよ。統制品でしたから、命がけというほどじゃありませんけど、お巡りさんの目を盗んでね。で、向こうで買ったらすぐに締めちゃいました。ガサにならないように正肉にしちゃうわけです。戦後もしばらくは千葉にずいぶんとあったんですが、あのあたりも開発が進んで、いまはずばりいって関西もののほうが多くなりましたね。ただ、いまでも覚えているのは、昭和一七、八年頃、船橋の裏の方におられたおじいさんから直接買っていたことがありましてね。いまでもあれが本当の合鴨だ、あれを超えるものは出ていない、と思っています。そうやって振り返ってみていえることは、いまはいい意味で合鴨の品質が均一化しました。というのも戦前は、どちらかといえば自然に近く飼ってましたから、夏はダメなんです。うちでは夏鳥っていいますけど、夏鳥は脂がなくてカサカサだったんですね。戦後もしばらくはそうでした。脂身がない。ところがうちでは、その脂を利用して鉄鍋で焼くわけですから、どうしようもない。それで、冬のいいときに脂を取って、ラードのようにして冷蔵庫にしまっておいて、初夏のうちはそれでなんとかしのいだわけです。それでも戦前の父の代のときまでは、七月と八月の二ヵ月間は暑中休業。店の人たちも一緒に伊香保に避暑に行っていた。ほんとによき時代というか、そういう商売でした。戦後は休みは八月だけにしたんですが、お客さんも変わってきて、ひと月休んだらもう見えなくなる、というようになって、三〇年代頃でしたか、通年で営業するようになりました。その頃から鳥もよくなりましたし、夏ネギ、夏大根も改良されてきましたね。
 戦前までは、合鴨は生きてるのが入ってきまして、それを締めてからの仕事でした。ただやはり水鳥ですから、毛引きが大変でしてね。専門の人が二人いて、一日中台所の板の間に座って、ポコンとひとつだけ裸電球を吊り下げてやってました。外側の毛から粗引きして、次に素引きして、今度は熱湯につけて湯引きします。これが一本ずつ引いていく作業で大変なんです。そして最後に付木といって経木の先に硫黄のついているやつ、それに火をつけてサーッと焼くわけです。私が親父は偉いな、と思ったのは、皮つきで使うのはダキの部分だけなのに、他の首とかモモとか使わない部分まで丁寧に毛引きするんですね。
 そういう丁寧さ、それがやっぱりうちの精神だと思うんです。結局、素材は合鴨だけなんですからね。