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INTERVIEW

月刊食堂2008年1・2月号「私の創業記」より

あぁ、事を成すとはそういうものか

小嶋淳司氏(がんこフードサービス㈱ 創業者)
 
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 がんこフードサービス㈱の創業は1963年。わずか4.5坪のすし店を大阪・十三に開いたのがはじまりである。このちっぽけな店が、いまや年商200億円を超える関西外食業界の雄にまで成長した原動力は、創業者である小嶋淳司会長の真摯なまでの商人魂にあった。

――関西の主だった繁華街で必ずといっていいほど目に付くのががんこフードサービスのトレードマークである小嶋氏の似顔絵だ。きりりと結んだ手ぬぐい鉢巻と口元が、いかにも「がんこ」の文字にふさわしく、ひと目見たら忘れられないほどのインパクトを与える。
 創業時のこの時代、すし店の価格は時価が常識だったが、小嶋氏は全品の価格表示を行なった。仕入れ価格の変動を年間トータルで考え、平均値を算出して売価を設定したのである。

 母の実家が田舎のよろず屋で、父の亡くなった後、女手ひとつで6人兄姉を育ててくれた。ところが私がちょうど高2の時大病を患ったんです。店を閉めるかどうかの瀬戸際までいったんですが、われわれを育ててくれた店だけに潰したくない。姉や兄はすでに家を出ていたので、結局、末っ子の私が継ぐことになりました。その時は中退になってもいいから商人の道を貫こうと決めていましたから、高校生としては相当な覚悟だったと思います。幸い、先生方のおかげで無事卒業できましたが。
 商売をはじめるにあたっては、お客さまのメリットとは何かをすごく考えましたね。メリットがなければお客さまに喜んでもらえないし、喜んでもらえなければ私がやる意味はないと思っていました。
 でも、いくら考えても答えが見つからない。それでしょうがないから、「なんでうちの店に来てくれたのか」「どこが気に入ってこの商品を買ってくれるのか」といったことをお客さまに直接尋ねることにしたんですよ。

腹の据わった商売人の行動は、現場経験からしか生まれない

 泥棒でさえ盗っていった商品の代金を翌日持ってくるぐらいの接客をすることとか、逆に理不尽に商品を持っていこうとする乱暴者に対しては断固として戦うなど、商人としての技術や感性、そして信念の大切さは母から学びました。母は尋常小学校を卒業してすぐに祖父のよろず屋を手伝うようになり、1年後にはひとりで店を切り盛りするようになったそうです。ですから、それらを知識として学んだわけではなく、すべて現場経験の中から導き出したのだと思います。
 そういう話を子供の時から聞いていましたし、実際に乱暴者と対峙する母の姿を見てきただけに、腹の据わった行動の基盤となるものは経験の中からしか生まれないということを感じていました。振り返ってみると、その頃から現場の大切さを意識するようになっていたのかなと思います。

商売で苦しみを味わうのは、問題から逃げようとした時

――その後、同志社大学を卒業。当時はなべ底不況と呼ばれる不況期で、西陣織などの繊維業界では連鎖倒産が相次いで起きていた。それを見た小嶋氏は手形商売は端から除外。また性格的にも無理をせず、日々コツコツと努めていくほうが向いていると考えていたことから、大衆相手の現金商売を志すことにしたのだ。そしてその中で注目したのが飲食業だった。

 職人を使うので店の管理が難しいし、流通基盤もない。食材管理の知識も技術も不足しているという遅れた業界でしたから。もちろん、いつかは近代化するだろうけど、時間がかかりそうだ、と。裸一貫で乗り出すには遅れているところにこそチャンスはあるなと考えました。それですし店に見習いで入ったんですが、すしを選んだのは仕事がシンプルだから。確かに熟練は必要だけれど、和食や洋食に比べると覚えなければならないことが少ない。1年で独立するために選んだわけです。
 もっとも、修業先のすし店では一人前になるのに5年はかかると言われました。また、独立して店を持てるのは10人にひとり、10年以上店を維持できるのはさらにその10分の1という話も聞かされた。でも、そういう厳しい話を聞けば聞くほどチャンスがあるなと思いましたね。それがいままで独立を志した人たちの経験則なら、それを乗り越えればいいわけですから。

――すし職人としての技術を学ぶ一方、小嶋氏は365日毎日すしを食べ続けたという。どの店も材料の違いはほとんどないのに、驚くほど味の違いが出る。そうしたことを学ぶとともに、自分がやる時にはどのようなすしを提供すべきかを考えていたのである。
 約1年間の準備期間を経て、小嶋氏は4.5坪、カウンターのみ13席の「がんこ寿司」を開業、28歳にして独立を果たす。開業資金は田舎の兄が出資してくれた。十三を選んだのは、庶民の街として振興著しかったからだが、すし店も大衆業態から高級業態までずらりと軒を連ねており、ここで一番のすし店になれば大阪中に名前が響き渡ること間違いなしと考えた。

 価格は高級店の7分の1から10分の1。すし店目当てに来ているお客さまが多い街だから、質が高くてボリュームのあるすしを安く提供すれば必ず来ていただけると考えていたのですが、甘かったですね。開業からしばらくはほとんどお客さまが来ないという状態が続いたんです。
 なぜ続けられたのかというと、ここで止めたら経験にならないという思いだけ。もう明日の仕入れの金も尽きるというギリギリの時になって、いきなり入りきれないほどお客さまが来るようになった。ああ、事を成すということはこういうことなのか、とその時思いました。
 創業に安全パイはありません。いつだって血の小便が出るくらいギリギリの勝負が要求されるわけですが、最後の最後にもう1歩踏み出せるかどうかが成否の分かれ目になる。越えられそうにない壁を越えたところにチャンスが広がるんです。そしてこうした経験を積んでいくことが商人としての勘を磨いていくことなんだと思います。

――その作業は苦しくないかという問いに小嶋氏はこう答える。

 問題に真っ正面から格闘している時には苦しさは感じませんよ。感じている暇もない。むしろ問題から逃げようとした時に苦しみを味わうことになるでしょうね。

ダメになったら店の前に屋台を引けばいいと考えた

――ようやく順風を受けて走りはじめ、前途が開けた思いの小嶋氏だったが、聞くとはなしに聞こえてきた従業員の会話に立ち上がれなくなるほど打ちのめされた。店の2階に従業員3人と住み込んでいた小嶋氏は、日頃からビジョンを熱く語り続けてきた。高校時代から働くことの意味を問い続けてきた小嶋氏にすれば、当然のことだっただろう。
 しかし、従業員は陰で「社長はホラ吹きだ」と囁いたのである。正味のところを話しているのに信頼されていないことにショツクを受けたが、考えてみれば4.5坪の小さな店で必死になっている自分が、いくら大阪一のすし店になると言っても信用されるはずがない。だったら、大きい店をつくって証明してやろうと開いたのが、飛躍のきっかけになった120席の大型すし店であった。   

 当時の財務状況を考えれば大変な無理をしたわけですが、それでも踏み切ったのは1号店が小さいながらけっこう売上げを上げており、その売上げを20%上げるだけで損益分岐点をクリアできると思ったからなんですよ。
 もっとも、その数字は1号店の人時で計算していて、本当はもっと必要だということが後からわかったのですが(苦笑)。まあ、万が一ダメになったら、閉めた店の前に屋台を引っ張ってきて商売をすればいいな、と。「この店やってきましたが、倒産したので屋台で再出発です」と言えば話題になる。そうすれば何人かは食わせていけるわけで、この2つの思いが決断の根拠になりました。

自分で判断できる人材を育て、専門店のチェーンをめざした

――開業からしばらくは閑古鳥が鳴く日々が続き、職人は毎日大工仕事のほうが忙しかったが、半年を過ぎた頃から軌道に乗った。
 ここからいよいよ本格的な事業化に着手するわけだが、小嶋氏が選んだのはテイクアウトずし店の多店化であった。その理由はまずコンパクトで投資が抑えられること、そして作業を製造・販売に絞り込むことによる単純化にあった。チェーンストアのセオリー通りの業態開発であり、これによってすし職人に頼ることなく成長できる仕組みを構築しようとしたのである。ところが……

 初期の郊外ショッピングセンターなどにも出店しました。ただ、インショップは施設の集客力に左右されるし、営業時間をはじめとして制約も大きく、限界を感じました。それに人の問題もあった。
 スタートするにあたって、能力があって、なおかつ熱心な人たちをスタッフとして招いたのですが、すしというきわめて単純な商品であっても、未経験者とわれわれ経験者との間には見解の違いがある。それが顧客対応や店づくりなどにも表われてくるんですね。これは大変だ、考えが甘かったな、と痛感しました。
それで、イートインの2店だけ残して、すべて同業者に売却したんです。
 以降は人が育つか、あるいは店をつくれば人が育つというめどが立ってから出店することにしました。ナショナルチェーンとして店数を追うのではなく、“人本主義”、あるいは“店長主義”といいますか、自分で判断できる人材を育て、地域に根付いた専門店チェーンとしてコツコツと店を増やしていこうと考えるようになったのです。

――がんこフードサービスという会社の特徴のひとつにもなっている人材育成へのこだわりは、この時に生まれた。
 専門店チエーンヘの第一歩となる店舗は’69年の秋にオープンした。テイクアウト店を譲り渡した資金を元手に新築した十三本店である。
 地下1階・地上3階建ての4フロア構成。300席を超える規模を持つ同店では、新たな試みとして本格的な和食の提供に挑戦。すしはあくまでその一部という位置付けで、それゆえに店内にはあえてすしカウンターを設けなかった。

 同じ十三という町で和食の大型店を複数店持つわけですから、お客さまに使い分けてもらうようにしなければなりません。そこで参考にしたのが神戸や横浜の中華街。ひとつのキッチンで何層かの客席をカバーするには、中華飯店の考え方が役立つと思ったんです。
 そこでポイントとなるのは宴会場だとわかったのですが、宴会だったら、ほとんどの料理で火を通すことが必要な中華よりも、あらかじめ調理しておくことができる和食のほうがはるかに有利。それにあの当時、和食で宴会ができる場所となると、高級和食店か料理旅館ぐらいしかありませんでしたから、大衆化することで宴会需要の獲得を狙いました。

――少しでも可能性がある限りは挑戦するという精神風土をつくったのは120坪の2号店だったが、すしを含めた総合和食業態、和服姿の女性スタッフによる親戚を自宅に迎えるかのような温かい接客、利便性を考慮した駅前立地への出店など、がんこ独自の業種・業態や、出店戦略を構築したのはこの十三本店である。

 いまは変わってしまいましたが、われわれが大阪・宗右衛門町に出た当時(’76年)は、大阪中から粋な人たちが集まる場所と言われていました。だから、周りからは場所に合わせた商売をしなさいよと散々聞かされた。
 でも、聞けば聞くほど、私は十三の田舎商法でいこうという気持ちが強くなった。だって、合わせたら他の店と変わらなくなってしまうわけですから。
 それよりも、自分たちが持っているものを貫こうと考えたんです。これは京都に出る時も、東京に出る時も同じで、十三の商売をそのまま出していくことを心がけました。従業員には、「大阪のがんこではなく、大阪は十三のがんこであるということを意識しなさい」と言い続けて徹底させました。

――確かに、周りにないから価値として感じるわけで、そこらに転がっているものなら誰も見向きもしない。粋筋が集まる宗右衛門町や繊細な文化を持つ京都だからこそ、泥臭いけれども実質的で正直な十三の商売も光るのだ。

 身に染み込み、腹に据わるまで考え抜いた。だから、やむなくはじめた商売を好きになることができたんです。最初っから好きなんてことはありえない。一生懸命努力して初めて好きになるんです。