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INTERVIEW

「月刊食堂」1978年4月号「私の社会人1年生時代」より

転職に次ぐ転職を支えた“独立”への情熱

桜田慧氏(モスフードサービス創設者)
 
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″実業″ の世界にいたい

 私はいわゆる脱サラなんです。
 だから社会人一年生時代というと最初の会社のことを話さなければなりませんね。昭和32年に日大を出て、日興証券へ勤めました。ええ、当時は食堂業なんてチラッとも考えませんでしたよ。ただ。普通に出世して・・・・・・と思ってたんです。ところが、学閥ってのがあるでしょう。如水会とか赤門会とかいってね、ことあるごとに彼らは徒党を組む。あれがイヤでね―。いっちょう彼らを負かそう、と考えて受けたのがアメリカ駐在員になるための選抜試験。それに受かって、昭和37年にビヴァリーヒルズの営業所へ行ったわけです。今から思えば、これが、私の人生の最初の転機でした。
 アメリカではよくトミーっていうパパママのハンバーガー屋へ行ったもんです。それが後でたいへん役に立ったのだけれど、その時になっても、まだレストランをやるなんてことは頭になかったですね。それが、滞米生活3年目にね、大会社の″いやな面″にぶつかったんですわ(桜田氏は多くを語りたがらないが、上司の陰謀で日本へ突如帰国させられたことを指すらしい)
 まあ、日興の国際部といえばエリートコースなんです。でも、この仕打ちにはイヤ気がさしました。この頃、知り合いのファッション会社がいい条件で移らないかって言って来たんです。同志4人と一緒に、という約束です。アメリカを見てますと実力のある者ほど転職していく。私だってそれは出来ると決心して辞表を出したんです。ところが、友人3人のは受理されたけれど、私のは「桜田君、君をロンドンヘやるから保留してくれないか」とこうです。悩みましたよ。でも、ここで3人を見棄ててはいけない。人間、ここが勝負所と思いましたね。
 このファッション会社で5年間勤めました。当初の約束と違って給料も低かったけれど我慢しました。テレックスを打っていた手が、今度はトラックヘ荷積みする作業に変わったんですよ。
 でも、この経験がなければモスを成功させることは出来なかったでしょうね。この時の我慢が後で物を言ったんです。
 5年、辛棒しました。しかし、そこの社長の営利主義一本の生き方にどうしても乗れなかったんです。カッコよく言えば、社長と意見が合わなかったから飛び出たわけなんですね。
 それで、ファッションの知識を生かそうと服飾小売店のためのコンサルント業を始めまして、これが2年。結構重宝がられたんですが″虚業″という印象はぬぐえませんでしたね。″実業″ の世界に戻りたい、と考えつづけてましたよ。

初日から3日間マクドナルドを見に行った

 この間、猛烈な独立心が湧いてきましてね、これだ! と思ったのが銀座三越のマクドナルドの開店。初日から3日間たて続けに見に行ったものです。思い出すのはロスで食べた“トミー“のこと。俺なら、あれをやると必死に思いつめたものです。
 当時貯金は200万円しかなかったんですが、友人知己を回ってとにかく800万円作りまして、私、友人、それに肉の加工会社の工場(さんざん歩いてやっと共感してくれた人です)の3人で渡米し、トミーでいっさいを学んだわけです。渡航費用とか生活費で600万はアッという間に霧消、半年後に帰ってきたときには手持ち資金はたった200万。それで、いわばフードサービス一年生時代を始めたんです。1号店は成増。八百屋さんの空き地を日参して借りうけて始めたところ初日から7万円売れて、嬉しかったですよ―。あの時は。
 でも、体も酷使しました。朝6時半から営業で終るのが10時。睡眠時間は毎日4時間位でしたか。始める前は80キロあった体重が開店して3ヶ月後には61キロになっちゃったんですから。まあ、女房もよく我慢してくれたと思います。1号店開店後にお金を借してくれた人が事業に失敗して破産したんです。こっちも返済できるあてはなかったけれど、一戸建ての家を二束三文で売り払って、その人に返したんです。それで家族は二間のアパード暮し。母の辞世の句がありまして、「倒されし竹は再び戻るとも、倒せし雪は跡かたもなし」というんです。他人を押しのけている雪は消えても竹は残る。自分はいつも、そういう″竹″ になろうと思ってきました。だから、100店まで店を増せたんだと思いますね。