津波の跡の残る街で
「名取にすごいセリがある。見に行こう!」
アル・ケッチァーノの奥田政行シェフから、そんな電話があったのは、今年2月初旬のこと。
「ああ、三浦さんのセリですね」
「えっ、なんで知ってんの?」
すばらしい食材を見つけて、興奮気味のシェフは、拍子抜けした様子。そしてちょっと悔しそうだった。
ちょうど1年前、私はまさしくその“すごいセリ”を栽培している三浦隆弘さんの案内で、名取市の閖上地区を訪ねていた。
門がまえに「水」と書く珍しい漢字は、名取川の河口に位置するこの地名にしか使われない。しかし、あの震災以来、仙台平野で最も被害と犠牲者が多かったこの地区の光景を、誰もが何度も目にすることとなり、ふりがなをふらなくても「ゆりあげ」と読めるまでになった。
私が初めて訪ねた2012年1月、閖上地区のガレキは撤去され、建物の土台と、立ち枯れた雑草だけが残る荒涼とした風景が、どこまでも続いていた。
住宅地はもちろん、田んぼも手つかずのまま。あちこちに水たまりができていて、例年通り渡ってきた鴨が、羽を休めていた。
「人間はボロボロなのに、鳥はちゃんと渡ってくる。それにしてもよく太った鴨だなあ」
「鴨は、セリの天敵なんですよ。だから防鳥ネットは欠かせません」
三浦さんに、そんなことも、教えられた。
津波の生々しい爪痕が残る閖上から、内陸に車で10分。下余田(しもようでん)地区に入ると景色が一変した。真冬だというのに、青々としたセリ田が続いている。距離にして5キロしか離れていないのに、同じ町に暮らす住民の明暗がくっきりと分かれてしまっている。それもまた津波の残酷さなのだと思った。
10年以上、ずっと最年少のセリ屋さん
セリは、春の七草の筆頭に数えられ、「古事記」や「万葉集」にも記述が見られる日本原産の在来作物。名取での栽培の歴史は古い。上余田(かみようでん)村の肝煎(きもいり)彦六が、安永4年(1775)に記した記録によれば、江戸初期の元和年間(1620年頃)に、自生していた原種に改良を重ねて栽培に成功。この地域の名主であった彦六自身もセリの改良を重ね、栽培普及に尽力したという。こうして名取川の伏流水が湧き上がる上余田、下余田地区で、豊富な地下水を利用してセリが栽培されるようになった。
近年は改良や育種も進んでおり、葉が大きくて歩留まりのよい「名取5号」、やわらかく細いものの、味が濃い「名取6号」などが栽培されている。
仙台周辺では、お正月の雑煮に焼きハゼとセリが欠かせず、東京の市場にも「仙台せり」の名で出荷されている。その歴史は、笹かまぼこや牛タンよりもずっと長いのだ。
そんな伝統ある名取のセリを受け継ぐ三浦隆弘さんは、1979年生まれの33歳。父を早くに亡くし、祖父から農業の手ほどきを受けながら育ち、宮城県農業短期大学を卒業後、20歳で就農した。現在は下余田地区で米とセリ、そして昔からこのあたりで栽培されている「ミョウガタケ」などを栽培している。
「この辺のセリ農家では、一番若いんでない?」とたずねると、
「いやあもう、10年以上ずっと最年少です」
丸顔で真っ赤なほっぺの笑顔がほころんだ。
名取市は仙台市の南隣。その気になれば働く場所にはこと欠かず、セリ農家の子弟でも学校を出て、すぐ就農する人はまずいない。大部分が兼業農家で、セリを作っているのは20歳以上年嵩の「おんちゃんだち」なのだ。昔ながらの産地でも、彼のように若くしてセリ屋になる人は、稀有な存在といっていい。
そんな三浦さんは20代の頃、なぜか消費者グループや、市民団体のおばちゃんたちと仲良くなり、彼女たちがいかに安心して食べられるものを希求しているか、それを栽培する人がいかに身近に少ないか、手の届く場所に信頼できる生産者がいてほしいと望んでいるか……徹底的に“洗礼”を受けた。
そんなこともあってか、二児のパパとなった今、さまざまな環境保護団体やNPO団体の勉強会に顔を出し、有機農業はもちろん、環境保全、セリ以外の在来作物についても熱心に学んでいる。そしてまた、自ら田んぼに子どもたちを招き入れ、食農教育を実践する田んぼの学校の先生もしている。
生産者仲間の中でも、ずば抜けて「安全性」という言葉に敏感で、常に情報を集め、周囲に気を配りながら栽培を続けてきた三浦さん。南へ約90kmの場所にある東京電力福島第一原発が事故を起こして以来、その“有機オタク”ぶりに、いっそう拍車がかかったという。
「子どもたちに、裸足で入ってもらえる田んぼを作りたい。だからうちの田んぼにはいろんな生き物がたくさんいます。いいのも、悪いのも」
力まずあっさり、そう語った。
原発事故以来、三浦さんは自主的に自分のセリを民間の検査機関に持ち込み、放射性物質の検査を受けながら出荷し続けている。販売先に提出できるよう、検査結果も添付。検出限界(ND)3Bq/㎏前後で計測し、これまで検出されたことはない。だからといって「ホッとひと安心」というわけではない。
震災後の夏、くぼみに溜まった水から高濃度のセシウムが検出された。土壌からも300Bq/㎏ぐらいは出る。作物に移行しないのは、土ががっちり吸着しているから。それはとてもありがたいことではあるけれど、けっして安心できない。原発事故に県境はない。県のサンプル調査だけでなく、これからも個別の自主検査は必要だと考えている。
「自分の作ったセリは、手の届く範囲で、誰が食べているかわかる形で販売していこう」
原発事故以来、そんな思いはいっそう強くなった。そして三浦さんは、自身がそんな姿勢を貫くことで、消費者が変わっていくことを望んでいる。
「市民のリテラシー、すなわち見る目がどんどん上がっていくのを期待しているんです。農家とつながろう。自分でデータを集めて、自分で判断しよう。そんな人が増えていけば、行政や企業に食べ物について判断を預けることはなくなる」
心配しなくてもいいように、自分で計ろう。そしてがんばろう。三浦さんのセリには、そんなメッセージも込められている。
1969年山形県鶴岡市生まれ。2000年「アル・ケッチァーノ」を開業。地元で栽培される食材の持ち味を引き出す独自のスタイルで人気を博す。「食の都庄内」親善大使、スローフード協会国際本部主催「テッラ・マードレ2006」で、世界の料理人1000人に選出される。07年「イル・ケッチァーノ」、09年銀座に「ヤマガタ サンダンデロ」をオープン。東日本大震災の直後から被災地へ赴き、何度も炊き出しを実施。今も継続して支援に取り組む。12年東京スカイツリーにレストラン「ラ・ソラシド」をオープン。スイスダボス会議において「Japan Night 2012」料理監修を務める。「東北から日本を元気に」すべく、奔走中。
http://www.alchecciano.com
1965年宮城県生まれ。食材の世界を中心に、全国を旅するかーちゃんライター。16年前、農家レストランで修業中の奥田氏にばったり邂逅。以来、ことあるごとに食材と人、気候風土の関係性について教示を受ける。震災後は、東北の食材と生産者を訪ね歩いて執筆活動中。「農耕と園藝」(誠文堂新光社)で、被災地農家の奮闘ぶりをルポ。東北の農家や漁師の「いま」を、「ゆたんぽだぬきのブログ」で配信中。
http://mkayanooo.cocolog-nifty.com/blog