そばってのは粋に食うものですよ
戦後は昼飯代わりになりましたが、もともと東京では間食い、趣味食ですからね
三百数十年前、大坂で創業、繁盛を極めたと伝えられる「砂場」の流れをくむのが、この「巴町砂場」である。江戸へ出た経緯は詳らかではないが、現在地で営業を始めたのが天保一〇年(一八三九)、それから数えて現当主萩原氏で四代目。創業にまで遡ると一五代に及ぶという。江戸期には大老屋敷にも出入りし、明治以後も「趣味そば」の伝統を守るべく「粋に食ってこそ東京のそば」の気風を貫き通す。時代の移り変わりの中で「昔ながら」の形を維持することが、どれほど大変なことか、そのことを心得ている貴重な存在だ。
東京のそばは粋に食べるものだった
「砂場」っていうのは、元々は大坂です。屋号は別にあったんですけど、砂置場の脇で営業していたものだから「砂場」が通り相場になった、という話です。それが殿様にくっついて江戸に来て店を出した。ですから、創業ということになると三五〇年か三六〇年くらい前ってことになるんじゃないですか。そのときから数えると私で一五代目になるんですけどね、ふつうは四代目ってことになっています。というのは、東京では店の場所でもって何代目って言うんです。それで、いまの場所で店を始めたのが天保一〇年からで、それから数えて四代目、ということです。その前は昔で言う久保町、いまの虎ノ門の交差点のところにあったそうです。ここ、巴町は天保年間から明治一五年くらいまでは天徳寺門前町って言って、その後、区画整理みたいなもので、天徳寺門前町、車坂町、新下谷町がくっついて、それで西久保巴町になって、で、その後また変わって虎ノ門三丁目でしょ。ややこしいんだよね。
江戸時代のこのあたりは街道筋でね、大名屋敷が並んでたそうです。こっちの場所に移る前は、虎ノ門の御門の前で営業してたわけですからね、たかがそば屋なのにさ。よっぽどいいバックが付いてたんじゃないかって思いますよ。その頃は店売りをやってたけど、こっちに移ってからはもっばら、大名屋敷とか大店あたりに届けてたらしい。まあ、そうは言ってもふだんは庶民相手の商売だったんでしょう。ただ、お殿様が持って来いって言ったらちゃんと区別して、お殿様用のそばを届けた。その区別ができたってことがすごいなって思うんです。
明治以後は骨董屋さんとお寺さんの町になって、戦後は骨董なんて売れなくなったんで、自動車のパーツ屋さんがずらっと東麻布の方まで並んでね。それで最近はビジネス街になって、うちの店までビルに入れられちゃった。私が知ってるだけでも、ずいぶんと変わったもんですよ、このあたりも。ただ、この一角だけは戦災では焼けませんでした。焼けたのは関東大震災のときと、その前は明治一五年、そのまた前が安政の大火。で、この前壊した店は震災後の昭和三年に建て直した家でね、ビルにするって言うんで裏の方を掘ったら、三〇〇年前のそば屋の徳利が出てきました。
お客もずいぶんと様変わりしましたねえ。戦前はね、そばってのは間食い、お三時みたいなものでした。そもそもが趣味食ですからね、東京の場合は。粋に食うものです。まあ、戦前は子供のときにおじいさんなんかに連れられてそば屋に入って、それで自然と食べ方とかいろいろ覚えられたんですね。だから戦後の人の食べ方なんて全然ダメ。それから、いまは若い女の子が平気で入ってくるようになりましたけど、戦前は若い女性がそば屋に入るなんてね、せいぜい旦那さんとかが一緒じゃないと。もっともうちの店の場合、女の子が来るようになったのはビルになってからの話でね。古い店のときはお客もお年寄りばっかりだし、女のくせにって目で見られるから、入りたくても入れなかったんじゃないですかね。
※大坂に源を発した「砂場」だが、江戸に根を下ろして江戸そばの屈指の名店となった。「巴町砂場」はその砂場そぼの原点とも言え、当主の萩原氏は「砂場会」の会長として老舗の暖簾を守り通している。昭和三年生まれの六一歳(取材当時)。次男として生まれたが、別の分野に進んだ長兄に代わって「四代目」を継いだ。そぼ屋の昔の仕事を熟知するひとりとして、貴重な存在である。
昼食にそば食うなんて笑われたものです
戦前の商売ってのは、お昼は忙しくないんです。大体が間食いでしたから。で、夕方暗くなってからは、今度は一杯呑み屋になるわけ。いまでいうスナックみたいなものです。酒をある程度飲んで、最後にそばを食う、と。たとえば、夕飯は六時頃食べちゃって、九時過ぎに風呂屋へ行って、その帰りとかね。ちょっと小腹が減ったし、このまま帰って寝るってのもあれだから、というんで一杯飲んで、そば一枚食って、とね。昔だって小料理屋とか呑み屋はあったわけですけど、ただ、そば屋なら安直で掛け値なしでしょ。だから、町人とか庶民が安心して飲み食いできたんでしょうね。ともかく、そばを昼飯代わりに腹いっぱい食うなんて言ったら、戦前は笑われましたよ。あれは戦後の代用食以後の話でね、その前はあくまで趣味そばです。
それくらいだから、営業時間も全然違いましたね。戦前までは夜中の二時頃まで営業して、片づけ終わると三時でした。風呂屋は一時までやってたしさ。戦後は仕舞いが早くなりました。要は、戦前とは生活様式が変わってしまったんですよ。店を開けるのは、戦前も午前十一時でした。夜遅いから朝はおかみさんが五時頃起きて、釜に火を付けてね。昔はおかみさんの仕事ってのは大変だったんです。豆腐屋とそば屋と魚屋は嫁の来手がない、とか言ったもんです。で、職人は、板前、釜前あたりはまず朝風呂入りに行って、仕事はそれから。そばは時間が経つとダメになっちゃうから。売れる時間帯に合わせて仕事すればいいわけです。なかでも板前はいちばん威張ってたから、二時間なら二時間のあいだに売り切れる分量のそばを打ったら、あとは知らん顔。新聞読んだり、賭け将棋したりしてね。店の主人なんてのは何もしません。大体、店にいやしませんよ。だから、たいていはおかみさんが帳場をやっていたもんです。
私が店を手伝い始めたのは、小学生のときから。四年生くらいのときには、もう手打ちができましたよ。小さい頃から見てますからね。見よう見真似でやってるうちに覚えちゃうんですよ。で、戦争で職人が取られていって、統制になって、営業できたのは昭和一八年まででした。私と同級生の連中は予科練とか特攻隊でだいぶ死んでしまったんですが、私みたいなチビは丙種でハネられて、戦争行かずにすんだんです。
戦後は二三年から営業しましたけど、そばなんてありません。米飯も売っちゃいけない。配給のうどん粉を持ってきたらうどんに打ってあげるという、依託加工。まあ賃打ちです。なんとかそば屋らしくなったのは、二五、六年頃から。でも、そば粉なんて手に入りませんから、トビ粉って言ってたんですけど、こんにゃくの粉、これを小麦粉に混ぜて打ってました。色が黒っぼくなってそばに見えるってだけの話です。味なんてありませんよ。それから、海藻麺なんてのも打ちましたね。なにしろ食べるものがなかった時代でしたから。そば粉をまともに使えるようになったのは、昭和三〇年頃からでしたねえ。
私はそば屋で大学行ったはしりでしてね、卒業したのが二六年。学生時代は賃打ちとか手伝わされてましたけども、卒業してから三年間は、サラリーマンやってたんです。ところがね、戦後のそば屋は昼忙しくなったでしょ。だから、昼になると店に帰って来て手伝わなくちゃいけない。背広脱いで袢天着て出前やってたんですから、世話ないですよ。 一応は昼飯食いに帰る、なんて体裁よく言ってましたけどね。で、飯は適当に食って一時には勤めに戻って、五時で退けて帰って来るとまた店を手伝って。二足の草鞋履いてたわけだけど、ま、会社の方が腰掛けで、本業はこっちでしたね。そんなことをやってるうちに親父が病気になっちゃって。兄貴にどうするって訊いたらお前やれよって言われましてね。三〇年頃でしたか。
※戦前は、そば屋で風邪の頓服薬を売っていたが、これには高級店、大衆店の別はなかったという。頓服にはかけそばがつきもの。そばで体を温めて頓服薬の発汗作用を早めたそうで、萩原氏自身、子供の頃風邪をひくとこれに決まっていたという。
昔の旦那は仕事はもちらん芸事にもたけていた
親父は主人やってるのが長かったですから、私が替わりしたのは昭和五〇年。だからまだ、十何年しかやってないわけ。ま、私の代はぐっと短くなっちゃいますね。でもね、音の店主、旦那ってのは大将でしたね、本当に。そりゃすごいもんでしたよ。そこいくと戦後の若旦那ってのは、労務管理から会計から全部見て、で、自分はそれこそ用務員でやんなきゃならない。下手すると、店の子たち以下ってことにもなりますからねえ。私なんて七面倒臭いから、トイレ掃除までやってしまうもの。自分でやった方が早いでしょ。いまの若旦那はもっと大変だろうね。世の中が複雑になった分、仕事がものすごく増えちゃってるでしょ。だから、そういう面で可哀そうだなって思いますよ。でも、それができなきゃいまの若い人じゃないわけだし、世の中で通用もしないわけですよね。
それとね、やっばりそば屋だけってんじゃダメだと思うんです。視野をうんと広げないと。舌の勉強って意味でもね。だから息子にもそば屋のことは何も教えてません。そんなことくらい、家にいたんだから見よう見真似でできますよ。それより、そば屋じゃないところで修業して来いって、料理屋に行かせました。私だって、進駐軍の時代に帝国ホテルで洋食やってたんですから。親父が帝国の大丸さんと友達だったんです。で、大学卒業するときにフランスに行ってみたいっていったら、大丸さんが受け入れ先の手配から、ホテル、食い物屋まで全部、手配して、紹介状を書いてくれましてね。それで食い歩きなんてこともやったんです。
そば屋としちゃ、けっこうハイカラでしょ。まあ、そば屋はそば屋でたかが知れてますけどね、親父の人間関係ってのはすごかったなあって思います。お客もいい筋のお客が付いていたし。それでね、親父は踊りは芸者が踊るのやめちゃうくらいだったし、長唄は名取りだったしね。あの時分の旦那ってのは、芸事くらいは何でもできないと一人前じゃないってようなところがあったんですね。三味線やったり清元やったり、常磐津やったりと。皆さん何かしらやってますよ。私も子供の頃、長唄を習わされましたもの。昔は、いい店の旦那ってのは、大体そんなものだったんです。もちろん、仕事もできましたよ。旦那が口ばっかりじゃ、店の者に文句も言えませんから。
うちの仕事は昔のまま。合理的で完成されているものです
※江戸の趣味そばを看板にしてきた同店だけに、戦前から値段は高かった。昭和一二年当時、もり一枚七銭が相場だったが九銭、天ぷらそばは一般に一八銭から二〇銭のところ二五銭を取っていたという。同様に、昭和三〇年頃は、もりかけが一五~一七円のところ二〇円。現在は四〇〇円のところ五五〇円、という具合である。しかも「うちは昔から、量が少ないよ」、ゆえに趣味そば、である。
うちはいまでも、昔からの仕事しかやってません。大体、木鉢を使わないで機械で粉練るってのは、どうもねえ。切るのは機械でもいいですけどね、木鉢はいちばん大事な仕事ですからね。で、昔のそば粉はもっと粒子が粗かったんです。いまみたいに微粉にしないから、香りももっとあった。それが何で細かくなってしまったかっていうと、機械でやるから。粗い粉だと、木鉢でないとうまくつながらないんです。それで、製粉屋もだんだんと細かくするようになったというわけです。
材料はずいぶん変わってきてますよ。そば粉なんていまは、国内産ならってことで諦めなくちゃしょうがないでしょ。国内産が手に入りにくくなり始めたのは、戦争になってからでしたね。戦後は今度、そば自体の交配の仕方とかも変わっているし、土壌もいろいろと問題があるでしょう。で、醤油は防腐剤が入ってるから死んじゃってるし、第一、水がひどい。すぐそこが浄水場で、ビルとは別に直接引いてるんですけど、それでもダメ。やんなりますよ。そういう変化に合わせてそれなりに分量だとか変えてはきてます。でもまあ、昔の仕事ってことは変わりません。だから、品書きも昔のまんまです。余計なものはやらないんです、七面倒臭いから。たぬきもなければきつねもなし。大体ね、変なものやればロスが出るでしょ。昔の品書きっていうのは、江戸時代にはもう完成されてたものでね。ロスは出ないし、そばだけじゃなくてつまみの方でも使えるようにね、これが考え抜かれてるんですよ。あとは季節ものってことになるけど、戦前までは松茸が年中使えたの。塩漬けにして一年中売ってましたからね。だから、昔のおかめには必ず、松茸が入った。いまのおかめは、ただの寄り合いですよ。
うちの場合は他所と違って、ずっと古いお客さんがついてましたからね。遠方からでも来ていただける、そういうお客が半分以上で、あとはそういうお客の紹介で来るとか。そういう意味では、音の仕事だけでなんとかなったってところがあるのかもしれませんね、確かに。
うちは砂場、で、更科さんとか藪さんとか、それぞれ技術が違いますよね。戦前までは、お互いにこの壁が厚かったんですけど、戦後になってからは交流するようになっています。親父連中は親父連中で同好会みたいなのを作って、倅は倅で集まってね。お前んとこのあれ、どうやって作るんだって、そういう勉強会をやって、お互いに技術的な面で吸収できるものは吸収し合ってきてます。昔はね、覚えたい仕事があったら、その店の年寄りと酒飲まなくちゃならなかった。素面じゃ教えてくれないけど、酔わせちゃえば案外しゃべってくれるから。だから月謝が高くつきました。そういうことでは戦後はね、戦前に比べたらそば屋全体のレベルはかなり上がっていると思います。
私なんかも、老舗だからって名前に頼っていられませんよ。名前があるほど自分が勉強しないと、結局は名前に潰されてしまいます。手前味噌がしょっぱくなったらダメなんです。昔の大名けんどんとか、邪魔臭いけどいろいろと取ってあるんですけど、それはね、ここに入れられるようなそばをこしらえられるようにならないと一人前じゃないんだよって、そう言われてきたからなんです。